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「僕には、ゴールが必要だった」中田英寿が“パスの美学”を捨てた理由と“異質な覚悟”《伝説の「ユベントス戦で2ゴール」から23年》 

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金子達仁

金子達仁Tatsuhito Kaneko

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photograph byAFLO

posted2021/09/13 11:00

「僕には、ゴールが必要だった」中田英寿が“パスの美学”を捨てた理由と“異質な覚悟”《伝説の「ユベントス戦で2ゴール」から23年》<Number Web> photograph by AFLO

セリエAデビュー戦でユベントスのデシャンとマッチアップする中田英寿。

「覚悟がちょっと違ったのかもしれない」

 ロシア・ワールドカップの開幕を目前に控えた今年の6月上旬、わたしは中田英寿とともにイタリアを巡る旅をしてきた。彼が所属したクラブの本拠地ペルージャ、ローマ、パルマ、ボローニャ、フィレンツェを訪れ、それぞれのスタジアムに足を運び、それぞれの地で美酒と美食を愉しんでしまおうという、言ってみればオトナの遠足のような旅だった。

 その様子はすでに発売されている『中田英寿 20年目のイタリア』でも紹介しているのだが、聞いて、書いて、活字になって、今更ながら意味の大きさを感じつつある中田の言葉がある。

 あれは確か、ASローマの練習場『トリゴリア』での話だったと思う。ひょんなことから話が脱線し、イバン・デ・ラ・ペーニャの話題になった。覚えている方がどれだけいらっしゃるだろうか。バルセロナのカンテラ育ちで『クライフの子供』『リトル・ブッダ』などと呼ばれ、21世紀は彼の時代になるのでは、とまで言われた選手である。

 だが、レアル・マドリーのライバル、ラウール・ゴンサレスはもちろんのこと、さしたる期待もされずにペルージャに加わった中田英寿などよりは、はるかに洋々とした未来が広がっているのでは、と多くの人が見ていたデ・ラ・ペーニャは、ほとんど何の爪痕も残すことなくセリエAを去ることになった。中田と同じシーズンに、ペルージャよりもはるかに強いラツィオに加わったにもかかわらず、である。

 その理由を、中田はこう言ったのだ。

「デ・ラ・ペーニャ。いい選手でしたよね。ただ、彼はスペイン人だから、失敗しても最悪スペインに帰ればいいっていう選択肢があったんじゃないかな。その点、僕の場合はイタリアに来た時点で、帰るという選択肢はまったくなかったから。やるか、つぶれるか。そこの出発点というか、覚悟がちょっと違ったのかもしれない」

 実際のところ、ラツィオで失敗し、続くフランスでもこれといった結果を残せなかったデ・ラ・ペーニャは、最終的に故郷(生まれ故郷、ではないが)の、しかし古巣ではないエスパニョールでキャリアを終えることになった。エスパニョール時代にスペイン代表に選ばれたとはいえ、その才能や期待値の高さを考えれば、大成しきれずに終わった感があるのは否めない。

 だが、中田からペーニャについての言葉を聞いたときには「へえ、かっこいいこというな」ぐらいにしか感じなかったのだから、わたしもどうかしている。正直なところ、こうやってもう一度中田英寿について書く機会がなければ、何も気づかないままスルーしてしまっていた可能性は高い。

 覚悟がちょっと違った?

 いまになって思えば、何と多くの意味の込められた言葉だったことか。

【次ページ】 「パスの美学」を捨てた理由

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