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あのドラ1は今…「当時の自分をボコボコに」“二刀流”候補だった元ロッテ柳田将利、わずか3年のプロ人生で最初についた嘘とは 

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永田遼太郎

永田遼太郎Ryotaro Nagata

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posted2021/07/09 11:02

あのドラ1は今…「当時の自分をボコボコに」“二刀流”候補だった元ロッテ柳田将利、わずか3年のプロ人生で最初についた嘘とは<Number Web> photograph by KYODO

2005年夏の甲子園でホームランを放ち、ガッツポーズを見せる青森山田の柳田将利。ドラフト1位でロッテに入団するも、わずか3年でプロ野球界を去った

 当時ロッテを率いていたボビー・バレンタイン監督から――大谷翔平が現れる前から――“二刀流”の才を見出されるほど、その素質は高く評価されていた。

 しかし、故障を繰り返しながら輝きを失い、何ひとつ満足なパフォーマンスを披露出来ないまま、プロ野球生活を終える。一軍公式戦での出場なし。二軍での登板もわずか。退団時のストレートは、130キロ台を下回っていた。

「僕の場合は中学、高校と追い込んで、追い込んで、練習して、やっと、あのパフォーマンスだったんです。だからロッテに入って一番に甘えたのは練習量でした。(高校野球が終って)『やっと解放された』『自由になれた』って気持ちが強くなって、プロの世界で活躍する自分の姿をイメージ出来なかった。僕の夢は『プロ野球選手になること』で終っていたんです。

 自分の中で目標を達成して、本来ならもっと頑張らなければいけないというときに、そこから背を向けてしまった。あそこで『もう10年頑張ろう』と追い込むことが出来ていたら、結果は変わっていたのかもしれません。僕のことをよく知らない人が見たら『怪我をして、3年でクビになって、かわいそうだな』とか思ってくれるんでしょうけど、実際はそうじゃない。野球と向き合う姿勢とか、プロ野球選手としての意識が低すぎました。それが3年でクビになった理由なんです」

居場所を見つけてわかったこと

  ロッテを退団した後、柳田さんは職を転々とした。2010年には父や周囲の説得に応じて、NOMOベースボールクラブで再び野球に取り組み、野手として再起をはかったが、自身の中でもプロレベルの打撃と言えるような域には届いていないと感じた。

「NOMOクラブでもそれなりに打っていたんですけど、プロのレベルではないなと自分でも感じました。仮に野手で生きて行くとしても、僕は守備力がないので、DHを任されるほどのバッターかと問われたらそこまでのバッターではなかった。父に対するケジメの部分が強かったんだと思います。父とも『トライアウト受けるまではやる』と、最後の約束をして、トライアウトを受けたので。完全燃焼ですよね」

 その後は兵庫県洲本市にある体操教室で野球を教える中、教え子の関係で繋がった日本料理店で板前の見習いをするなど飲食店の世界に進んだ。しかし、ここでも自分の居場所は見つけることが出来ない。愛知県名古屋市のラーメン店を経由して、現在の職場である株式会社和弘運輸(大阪府東大阪市)に辿り着いたのは6年前の2016年のことだ。

「プロの世界をあがってから本当に色んなことがありましたね。結婚もして、子供が出来て。やっぱり子供が生まれてから人生観が変わりました。18歳でプロに入って、お金をもらって野球をやる意味とか、多額の契約金をもらった意味とか、それがどれくらい凄いことなのか分からなかったんです。ファンの方がどれだけの想いを込めて応援してくれていたかも……。今考えたら、本当に色んな人を裏切ってきたなと思います。自分が結果を出せなかったことよりも、『俺は今まで何人の人を裏切って来てんねん』と。今はそっちの後悔しかないですね」

 現在、センター長を務める和弘運輸では5つの倉庫管理を任される。プレイヤーではなく、マネジメントする立場になって、自らの過ちをより振り返るようになった。

 日々、同僚たちがスムーズに働けるよう心がけているという柳田さんは、そこであることを思いついた。

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柳田将利
千葉ロッテマリーンズ
青森山田高校

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