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安藤美姫が明かす“記憶を失くした18歳の1年間”「特にトリノの頃はスケートのことをあまり覚えてないんです」 

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河崎環

河崎環Tamaki Kawasaki

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photograph byNanae Suzuki

posted2021/04/14 11:00

安藤美姫が明かす“記憶を失くした18歳の1年間”「特にトリノの頃はスケートのことをあまり覚えてないんです」<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

現役引退から8年が経った安藤美姫さん(33)

 家や学校の前の木陰に隠れる記者たちにカメラを向けられる日々。当時、安藤の中にあった感情は怒りなどではなく、「恐怖」だった。「外に出ることが怖い時期がすごく続いたので、スケートに集中できませんでした。それを跳ね返すぐらい強ければよかったんですけれど」。いったいどこの女子高生が日本中の大人の男たちの好奇の視線に晒され、四六時中カメラを向けられる毎日を跳ね返すことができるのだろうか。さらに世間の目は激しさを増す。

「中学3年生ぐらいから女性になるための体の変化がすごくあった方なので、外見に関して言われることが増えました。そういう声を自分の中でいかにすっきりさせるか、対応するかがすごく大変で、スケートよりも自分には難しかった。だからか、特にトリノの頃はスケートのことをあまり覚えてないんです。1年間の記憶がぽっかりと抜けていて。きっと忘れたかったんだと思います」

 18の健康な少女が記憶を失くした痛烈な1年。忘れたいと願ったのは、彼女自身が自分を守るための唯一の方法だったのかもしれない。

トリノ五輪で挑戦した4回転「納得できていた一方で…」

 そんなメディアの狂乱の中で迎えた2006年トリノオリンピック。ヒートアップする日本のメディアを避けるべく、直前から活動の場をアメリカに移して調整をしていたが、アメリカにも記者は追いかけてきた。さらに、足の指を骨折するトラブルにも見舞われ、身体的にも精神的にも万全な状態とは言えなかった。それでも、安藤は自分の意思を通して4回転ジャンプに挑んだが、結果は失敗。最終15位で初めての五輪を終えた。

「やっぱり(4回転を)成功させたかった。でも、自分の挑戦に対して後悔はないです。骨折をして身体的にも精神的にもベストな状態ではなかったけど、『4回転を飛ぶこと』にチャレンジできる人は他にいなかった。オリンピックという大きな舞台で挑戦できるなら、したいと強く思ったんです。

 ただ、自分の目標の1つでオリンピックに出て、4回転にチャレンジできたというところには納得できていた一方で、日本代表として戦えていたかというところでは反省すべきところもあった。そう考えると、世間やメディアの方が求めていた結果ではなかったので、厳しい声も受け止めることができました」。五輪直後、彼女に対する報道はネガティブで攻撃的なものが多く、日本の反響にも中傷の言葉が溢れていたという。

「応援してくださる人なんて、もともといなかった」

 安藤は、トリノ五輪を滑り切ったら「スケートをやめる」と決めていたという。「スケートは好きですけど、そのスケートをやっているがために見世物みたいに扱われて、自分の人生までぐちゃぐちゃになってしまうのであればもうやめた方がいいのかなと思いました。1つの目標だった五輪にも出させていただいたし、もう自由になりたいなと」。

 しかし、安藤を悩ませていた“世間の熱狂”は急冷を迎える。トリノ五輪直後の報道が一通り終わると、メディアも潮が引いたように安藤の前からいなくなっていった。

【次ページ】 「誰も信じないことで自分を守る」

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