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サッカーの聖地マラカナン改名騒動… 「王様ペレ」なのに大反対、背景にある“剛腕ジャーナリスト伝説”とは 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byTakuya Sugiyama/JMPA

posted2021/03/20 11:00

サッカーの聖地マラカナン改名騒動… 「王様ペレ」なのに大反対、背景にある“剛腕ジャーナリスト伝説”とは<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama/JMPA

ドイツとメッシ擁するアルゼンチンが激突した2014年W杯決勝の舞台マラカナン。改名騒動はブラジル国中を大きく騒がせているという

ブラジル政府に生まれた思惑とは

「我々が誇りとする世界で最も美しい町リオに、世界で最も大きく最も美しいスタジアムを建設するべきだ」として、連日、紙面で論陣を張った。「巨大スタジアムの建設に莫大な金を使う代わりに、病院や学校を造るべきだ」という声には、「素晴らしいスタジアムが身近にあれば、市民はスポーツと健康にもっと関心を抱くはず。病院を造るより、病気を予防する方が賢い」と反論した。

 マリオ・フィーリョの主張を聞いて、軍事独裁政権時代の空気感が残るブラジル政府に「W杯開催は世界の人々の耳目を集める絶好の機会。国家の威信を賭した一大イベントとしたい」という思惑が芽生えた。大統領が「政府がスタジアム建設の費用を全額負担する」と発表。さらに、「世界最大規模のスタジアムを建設を目指す」とぶち上げた。

 当時の世界最大のスタジアムはグラスゴー(スコットランド)のハムデン・パークで、収容人員は14万9000人だった。このスタジアムを超えるとなると、収容人員が15万人以上ということになる。

 のみならず、当時としては最高の技術を集めて設計プランを練ったところ、エンジニアから「20万人収容も可能」という見解が出た。こうして、当時としてはもちろんのこと、七十数年後の現在でも荒唐無稽と思われかねない超巨大プロジェクトが始まったのである。

紙面上での自説展開に賛同する人が増えていった

 次なる問題は、この規格外の巨大スタジアムを市内のどこに建設するか。

 市の西部に大きな遊休地があり、ある市会議員がその場所を提案した。しかし、マリオ・フィーリョは交通の便が悪いとして、市の中心部のすぐ北にあるマラカナン地区の競馬場跡地を推奨。「鉄道の路線が通っていて、アクセスが良い。南部に比べて開発が遅れている北部の発展にも寄与する」と説明。例によって連日、新聞紙上で自説を展開した。

 マリオ・フィーリョの意見に賛同する人の数が日を追って増え、政府、市議会議員の意見にも影響を与えた。

 1947年11月、リオ市議会が「マラカナン地区の競馬場跡地にスタジアムを建設する」という決議案を可決した。つまり、スタジアム建設に関し、全面的にマリオ・フィーリョの意見が通ったのである。

 W杯開幕は1950年6月の予定で、残された時間は2年半あまりしかない。1948年1月から建設予定地の造成が行なわれ、8月、建設工事が始まった。そこからW杯開幕まで2年足らずとあって、ブラジル全土から労働者が集められ、突貫工事が行なわれた。

 マリオ・フィーリョは、毎日、工事現場へやってきて綿密に取材し、工事の進捗状況を逐一報道した。彼の克明で臨場感溢れるレポートによって、リオ市民のW杯への関心は高まった。やがてそれは、未曾有の巨大スタジアムの建設、晴れがましいW杯開催とその成功、そしてブラジルの初優勝への期待感を生み出した。

 当初、スタジアムは当時のリオ市長の名を取って市立アンジェロ・メンデス・デ・モラエス・スタジアムと呼ばれた。

【次ページ】 一部が未完成なのにW杯開幕戦、8万人超の観衆

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