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由規が神宮と地元宮城で浴びた大声援「ケガをしなかったら13年間も野球を続けようと思わなかった」 

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田中大貴

田中大貴Daiki Tanaka

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photograph bySANKEI SHINBUN

posted2020/12/23 11:03

由規が神宮と地元宮城で浴びた大声援「ケガをしなかったら13年間も野球を続けようと思わなかった」<Number Web> photograph by SANKEI SHINBUN

2019年9月26日、最初で最後となった地元・宮城の一軍マウンド。9回1イニングを投げ、則本昂大(右)にウイニングボールを渡した

「回復が追いつかない」という辛さ

――そこから長いリハビリが続きました。

 実戦を離れたのは1年ぐらいですね。術後は徐々に球速も戻りつつあったんですが、本当に辛かったのはそこからでした。投げては休んで、投げては休んで……言葉にするのが難しいのですが、回復が追いつかない状態がずっと続きました。そのあと14年、15年も二軍のマウンドで投げては、また離脱の繰り返し。

――「回復が追いつかない」というのは?

 投げている最中はアドレナリンも出ていますし、体が温まってることもあって、痛みはないんです。でも、投げ終わった次の日に確認動作をすると、ちょっと痛い。肩に何か引っかかってる感覚が残る。だから、先発の時は中10日とか2週間ぐらい空けさせてもらったんですけど、それでも次の登板までに元に戻らない。だから一度、ストップしようとなり、結局そのままシーズンを終えてしまった。そのオフ(15年オフ)に育成契約となりました。

――そこであの試合に繋がるんですね。

 中継ぎで再出発という話もありましたが、当時はとにかく先発にこだわっていました。結果的にまた背番号「11」をいただき、神宮のマウンドに立つことができました。良くなっては、また悪くなっての繰り返しでしたから、本当にきつかったんです。その後もまた苦しみましたが、あの景色は忘れられないんです。

――松坂大輔選手や和田毅選手らも現役を続けているからこそ、また投げる機会を得ることができる。由規選手も決して諦めることはしなかった。

 そういった意味で、何よりも諦めなかったことが自分の一番の強みだと思います。常に、可能性が1%あるなら、という気持ち。おこがましいですが、トライアウトで新庄(剛志)さんが「1%でも可能性があるならそこに挑戦したい」とおっしゃっていたことがすごくわかりますね。

とにかく一生懸命、投げ続ける

――高校時代に活躍して、ドラフト1位でヤクルトに入団。そこからは思い描いた野球人生ではなかったかもしれません。

 ここまで苦労するとは想像もしなかったです。でも、ケガをしなかったら13年間も野球を続けようとも思わなかったかもしれません。それこそ結果を出せずにそのまま終わっていたかもしれませんしね。

――ちょっと意地悪な質問になりますが、今後どういう状況になったら「ケガに打ち勝った」と言えると思いますか?

 やはりNPBで野球をすることが現段階の目標ではあるんで、そこに戻れたときでしょうか。あとは周りの評価、ですね。中継ぎとして毎日投げられるのか、先発だったら中6日でちゃんとローテーションを回せるのか。そう判断をされた上で初めてNPBの球団から声がかかると思っているので。そうなるためには、今はとにかく一生懸命、投げ続けることしかないと思っています。

【#3へ続く】2度の育成契約を経験した由規が語った意義「選手目線から見ると、ありがたいシステム」

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