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難病と闘ったマサ斎藤の死から2年。
天龍、長州を開眼させた男を偲んで。 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph byYukio Hiraku/AFLO

posted2020/07/19 08:00

難病と闘ったマサ斎藤の死から2年。天龍、長州を開眼させた男を偲んで。<Number Web> photograph by Yukio Hiraku/AFLO

監獄固めを決めるマサ斎藤(1993年撮影)。プロレス界に残した功績は、これからも語り継がれていくだろう。

現役引退後、パーキンソン病を発症。

 '80年代後半からは、新日本プロレスマットでアントニオ猪木と抗争を展開。その集大成が、巌流島の決闘だった。そして'80年代末からは、レスラーと並行して新日本プロレスの外国人ブッカー(渉外担当)も務め、ビッグバン・ベイダーやスコット・ノートンらを発掘した。

 '99年2月に現役を引退。ここからはブッカーに専念し、日本とアメリカの橋渡し役として、さらなる活躍をしようとしていた。その矢先に、パーキンソン病が発症してしまったのだ。

 原因は、長年スーパーヘビー級の外国人レスラー相手にバンプ(受け身)を取り続けることで蓄積した脳へのダメージと言われている(大脳皮質基底核変性疾患)。またレスラーの常備薬ともいうべき、強い鎮痛剤を常用していたことの影響も指摘された。そういった諸々の要因が重なった上での発症だったが、マサさんにとっては“生きがい”を奪われたことも大きかったと言われている。

マサさんが失った2つの“生きがい”。

 マサさんは'90年代後半、新日本プロレスとアメリカのメジャー団体WCWが提携を結んでいた時代、新日本側の窓口となっていた。新日本とWCWという日米のメジャー団体の交流を活性化させる役割は、長年アメリカを生き抜いてきたマサさんにしかできない、大事な仕事だった。

 しかし、'98年ごろからWCWはライバル団体のWWEに押され、徐々に経営が悪化。そして'99年9月、マサさんとともに新日―WCWの交流を推し進めていたエリック・ビショフ副社長が、業績不振を理由にWCWを解雇された。同時に新日本とWCWの関係もそこで終わってしまった。

  これによって、マサさんの新日本での立場も微妙になり、メインの海外ブッカーは他の人間が担当するようになる。マサさんはいわば窓際に追いやられた。プロレスの試合と、WCWとのパートナーシップ推進という、ふたつの生きがいを続けざまに奪われてから、パーキンソン病は急激に悪化してしまったのだ。

 のちにマサさんは「あのときWCWが倒れてなかったら、俺はこんな地獄を見なかった」と、夫人に何度も語っていたという。

【次ページ】 奮い立たせていた2020年東京五輪。

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