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西岡剛、中田翔、根尾昂の追想。
坂道を駆け抜けた大阪桐蔭の3年間。

posted2020/02/09 11:30

 
西岡剛、中田翔、根尾昂の追想。坂道を駆け抜けた大阪桐蔭の3年間。<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

2018年夏の甲子園決勝では金足農に13-2と勝利し、史上初2度目の春夏連覇を果たした。

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

PROFILE

photograph by

Hideki Sugiyama

史上初となる2度目の春夏連覇を果たした最強軍団の常勝の魂は果たしてどのように受け継がれてきたのか。黎明期を支えた西岡剛、全国にその名を轟かせた中田翔、王者の宿命を背負った根尾昂が大阪桐蔭での日々を追想する。
Number983号(2019年7月25日発売)の特集を全文掲載します!

 西岡剛はもうスポーツカーに乗っていない。ネオンの光からもしばらく遠ざかっている。その代わり、8時間の睡眠、目覚めの散歩とストレッチ、半身浴、そして白球とバットで一日を満たしている。

「5台くらい乗ってましたが、再婚と同時に手放しました。20代は派手な車に乗って、飲み屋で遊びましたけど、結局、見栄の張り合いなんですよ。僕、頭良くないので、あの頃はわからなかったんです」

 21歳でゴールデングラブ、ベストナインに輝いたスピードスターはそのまま日の丸をつけ、アメリカへと突っ走ったが、やがて減速し、3年前にアキレス腱を断裂し、1年前、阪神を自由契約となった。彼はついに止まった。そこで大切なものが何かということに気づいた。

 独立リーグ・栃木ゴールデンブレーブス。今、西岡が汗を流しているのは、とてもフェラーリでは入れない北関東の農道の奥にある、ロッカー室もない地方球場である。自らの練習が終われば、不揃いなユニホームの若者たちに「テンション低いんちゃうかあ!」と関西弁とノックを浴びせる。

 野球人生の黄昏。ここに至って無性に思い返されるのが、あの生駒山の坂道をがむしゃらに駆け抜けた3年間だという。

「やめさせたいんなら、殺してみろ!」

 2000年、西岡が入学した頃の大阪桐蔭は群雄割拠の中のひとつに過ぎなかった。西岡も王者PL学園のセレクションに落ちて入学してきた選手だった。

「僕らの代はみんな中学の卒業式で特攻服を着ていたような奴らの集まりでした。入ってすぐに監督から『今までで最低の学年だ』と言われたんです。だからかもしれないですが、バットを振れなくなっても振る。捕れない打球に本気で飛びつく。そういう精神的に追い込むような練習が多かったんです。特にあの坂道ダッシュは……」

 とんがりまくった原石たちに、坂を走れと命じたのは当時30歳の青年監督・西谷浩一である。中でも、とびきりのゴン太だった西岡とは真っ向からぶつかり合った。

「少しでも気を抜いたプレーをしたら、今すぐ野球辞めろと言われ、突き放されました。でも僕も反抗するし、向かっていった」

 もう来るな! と言われても、寮に住み込んでいた西谷の部屋をノックし、食い下がった。はね退けられ、またぶつかっていく。そんな問答のうちにグラウンドで取っ組み合いになったこともあった。ついには学校から外出する西谷の車の前に両手を広げて立ちふさがり、叫んだ。

『やめさせたいんなら、殺してみろ!』

 黎明期の熱がほとばしっていた。

 なぜ、西谷がとりわけ自分に厳しく接するのかはわかっていた。部員が毎日、監督とやり取りする野球ノート。西岡はそこに入学まもなく、こう書いたのだ。

『僕は甲子園を目指していません。PLを倒して、プロで活躍することが目標です』

 つまり西谷の厳しさとは、西岡の志に見合った情熱に他ならなかった。

「僕のすごく高い目標を知ってくれていたし、こいつはどんなに厳しくしてもめげないってことがわかっていたと思うんです」

【次ページ】 赤ペンで書かれた「継続は力なり」。

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