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柳本晶一は“世界の猫田”に挑んだ。
<オリンピック4位という人生(4)> 

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鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

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photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2020/02/02 11:30

柳本晶一は“世界の猫田”に挑んだ。<オリンピック4位という人生(4)><Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

1976年モントリオール五輪。エースセッターの座を奪えず、柳本晶一の出場機会は限られていた。

猫田を観察、コップの裏にメモ。

 それからはコートの外から猫田を目で追うようになった。あの言葉の真意を探すかのようにじっと観察するようになった。

「そうしたら今までと違ったものが見えてきたんです。猫田さんはトスを上げて、どう見てもスパイカーのミスなのに『すまん! もう一本!』と言う。僕は猫田さんがやらないジャンプトスをやってやろうとか、俺のトスを決めろよとか、競争ばかりしていた。ハッとしました」

 ビデオがない時代、水汲みコップの裏に厚紙を貼り、鉛筆を忍ばせ、ボール拾いをしながら猫田の技術も所作も強みも弱みもメモした。夜、部屋に戻ってそれを清書した。ノートが2冊、3冊と増えていった。

 しだいに猫田だけでなく、スパイカーの特徴や跳ぶときのクセがわかるようになってきた。コートの外を自分の居場所と考えられるようになった。不思議と残り15分の練習も不満ではなくなった。その上で「俺を使ってください!」と訴え続けた。

 モントリオール五輪、準決勝。日本はポーランドにフルセットの激闘の末に敗れ、連覇の夢は絶たれてしまった。

 その夜、選手村にもどった柳本はチームの雰囲気に異変を感じた。

「表面的にはいつもと変わらず宿舎での生活をしているんです。でも明らかにいままでと空気が違う。金メダルだけをめざしてきた人たちが目標を失って張りつめたものがなくなっていた。これはえらいことやと。僕は絶対にメダルが欲しかったから……」

東洋の魔女を見て「メダルを取りたい!」

 大阪で生まれた柳本は幼いころ、野球選手に憧れたが、中学に野球部がなかったため友人に手を引かれるままバレー部に入った。いつもやめたいと思っていたし、当時、バレーを「女のスポーツ」と考えていた父親にも言えず、内緒にしたままだった。

 運命が変わったのは1964年10月23日。東京オリンピック閉幕まで2日となったその日、自宅で“東洋の魔女”を見た。

 実業団・日紡貝塚の大松博文監督とその選手たちを中心に構成された代表チームは決勝でソ連を破り、同競技史上初の金メダルに輝いた。

「あの瞬間は忘れられません。脊髄がゾワゾワッとして、俺もあそこに行きたい! メダルが取りたい! そこで初めて親父にバレーをやりたいと言ったんです」

 つまり柳本のバレーボールとは遡ればオリンピックであり、メダルだった。

 だからこそチームの異変を目の当たりにしたモントリオールの3位決定戦、いつも以上に叫んだ。

 監督、俺を使ってください――。

【次ページ】 どん底の柳本を救った監督就任。

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