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「おやめなさい。ご両親が悲しみますよ」…31年前の日本ダービー・伝説の「ナカノコール」は“競馬が認められた”瞬間だった 

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江面弘也

江面弘也Koya Ezura

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photograph byAFLO

posted2021/05/27 11:03

「おやめなさい。ご両親が悲しみますよ」…31年前の日本ダービー・伝説の「ナカノコール」は“競馬が認められた”瞬間だった<Number Web> photograph by AFLO

アイネスフウジンの勝ち時計2分25秒3は、当時のダービーレコードだった

 声がでる。しかし、届かなかった。1馬身1/4差の2着。皐月賞同様、もどかしさと悔しさが残った。横山はうまく乗ったし、ライアンもよく走った。しかし、それ以上に中野にうまく乗られたんだ。そう自分に言いきかせ、馬を迎えるために検量室に急いだ。ライアンが戻ってきて、小島と横山はこの日初めてことばを交わした。

「いやあ、悪いね。すまないね」

「そんなことないよ、運がなかったんだよ」

 ナカノ! ナカノ!……。

 ゴール後にはじまった「ナカノコール」が大きくなり、地下にもきこえていた。

競馬に関わる女性がほとんどいなかった時代に

 スタンド最上階。ゴンドラにあるフジテレビの実況席はバルコニーのようで、大歓声がおきると揺れた。鈴木淑子はそこでレースを見ていた。通常、競馬中継の司会者は室内の席を離れられないが、GIのときは勝利騎手インタビューまで司会席が映ることがないから、レースも生で見られた。

 ほんとうにすごいレースを見た――。

 鈴木はこころから感動していた。好きなメジロライアンに勝ってほしかったが、アイネスフウジンの逃げきりも見たかった。直線では声もでた。実況のマイクに拾われないように、小さな声だ。

 ダービーの逃げきりは'75年のカブラヤオー以来だが、鈴木は見ていない。競馬中継に関わったのは'83年3月、ミスターシービーが勝った弥生賞からだ。最初は怖さもあったが、すぐに競馬の虜になった。競馬のおもしろさをたくさんの人に知ってほしくなった鈴木が、パーソナリティーをしていたラジオで競馬の話をすると「競馬なんておやめなさい。ご両親が悲しみますよ」と“お叱り”のはがきが届いた。まだ、競馬をやる人は白い目で見られ、競馬に関わる女性はほとんどいなかった時代である。テレビの天気予報番組で金曜日の担当になると、アドリブをつけくわえてはディレクターに怒られた。

「あさっては日本ダービーです。晴れ、良馬場です!」

初心者もベテランも男性も女性も「ナカノ!」

 そんな鈴木の願いはすこしずつ形になっていた。'86年に男女雇用機会均等法が施行され、JRAも働く女性への普及に力をいれていた。ときはバブルの絶頂期で、中尊寺ゆつこの漫画『スイートスポット』からうまれた「オヤジギャル」が流行語になった。この日、スタンドを埋めた19万人のなかには初めて競馬を見る女性も多かった。

 ゴールしたあと向正面で呼吸を整え、ゆっくりと引き返してきたアイネスフウジンが1コーナーの手前にきたときだった。

 ナカノ! ナカノ! ナカノ!……。

 膨れあがった「ナカノコール」が実況席を揺るがすように響いてきた。驚いて見下ろすと、大観衆が手を突きあげて「ナカノ!」と叫んでいた。初心者もベテランも男性も女性も馬券が当たった人も外れた人も。その空気を直に感じた鈴木は背筋が寒くなり、また感動した。

【次ページ】 「競馬というスポーツが大衆に認められた」

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