ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
棚橋も、武藤も、ライガーも出身者。
ヤングライオン杯は新日本の未来像。
posted2017/12/21 11:40
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
12年ぶりの復活となった、新日本プロレス若手の登竜門大会「ヤングライオン杯」。6人の若手選手が参加し10月から始まった公式戦も、いよいよ12.21『LION'S GATE PROJECT 10』新宿FACE大会を残すのみとなった。
この「ヤングライオン杯」は過去10回開催され、歴代のトップレスラーを数多く輩出してきたが、近年はリーグ戦を組むほど若手の頭数が揃わず、後藤洋央紀が優勝した2005年の大会を最後に開催が途絶えていた。それが今回、じつに12年ぶりに復活したことは、いまの新日本の選手層の充実ぶりを示すとともに、新日本が“プロレス人気回復”から、“未来への投資”という新たな段階に入った証といえるだろう。
オカダ・カズチカや内藤哲也の人気が全盛のいまから、すでに“次”を見据えているのだ。
始まりは、選手大量離脱での苦肉の策だった。
このように「ヤングライオン杯」は、未来を託す大会であるが、いまや伝説と言われる、1985年の第1回大会は“苦肉の策”として開かれたものだった。
新日本プロレスはこの前年、長州力率いる維新軍(ジャパンプロレス)や前田日明、藤原喜明、高田延彦らUWF勢など、選手大量離脱に見舞われ、残ったのはアントニオ猪木、藤波辰爾ら一部トップ選手以外、前座レスラーだった中堅、若手選手のみ。陣容を整えるためには、まだデビューしたばかりの若手を売り出すしかなかったのだ。
それでも新日本が幸運だったのは、その若手が有望な人材揃いだったこと。
第1回大会は、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝、そして山田恵一(獣神サンダー・ライガー)と、のちのレジェンド級トップレスラーが5人も参加していたのだ。彼らのハツラツとした全力ファイトは、焼け野原のようだった当時の新日本プロレスに光を灯す結果となった。