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公式記録にはない
戦時下の夏の高校野球。
~“幻の甲子園”の物語~
text by
後藤正治Masaharu Goto
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2010/08/07 08:00
『昭和十七年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち』 早坂隆著 文藝春秋 1600円+税
甲子園球場における夏の全国高校野球大会は長い歴史をもつが、昭和16年から20年まで中断している。いうまでもなく戦争のためであったが、実は昭和17年に大会は開かれている。参加したのは16チーム、決勝戦では徳島商業が京都・平安中学を破って優勝している。
夏の大会の主催者・朝日新聞社の資料ではこの年の大会は公式大会とはなっていない。戦時下の事情のもと、主催が文部省および大日本学徒体育振興会であったからだ。本書はこの“幻の甲子園大会”を伝える物語となっている。
著者は、当時の資料を探索し、フットワークよく各地に現存する元球児たちを訪ねている。彼らが主人公であるが、ある意味では主人公は時代そのものだ。大会が開かれた8月末から9月、ガダルカナル島とソロモン海域では日米両軍の死闘が繰り返されていた。選手たちは「選士」と呼ばれ、大会の記章には突撃兵がデザインされていた。
戦時中のこと。ボールもすでに純綿の糸を使ったボールが底をつき、スフ(人造絹糸)やクズ糸などで芯を巻き、ほころびたボールは縫って使用された。ボールは飛ばず、この大会で記録されている本塁打は2本のランニングホームランのみである。
台湾の中学、台北工業にとっては、甲子園に出向くこと自体が命がけであった。「内台航路」もすでに危険域となっていた。学校は責任回避も込めて、14人のメンバーに「親の承諾書」を求めた。エースで4番の武男、外野の控え選手の文男の兄弟を送り出す父・菊池武文はいったんこれを出し渋った。2人の息子を同時に失うのは耐え難いと思ったからだ。台北工は一回戦で敗退するが、帰路の海、撃沈された輸送船のボートと遭遇したりもしている。
ユニフォームから軍服へ、ボールから手榴弾へ……。
大会は終わり、多くの球児たちはユニフォームから軍服に着替え、投げるものをボールから手榴弾に持ち替え、中国へ、フィリピンへ、予科練へ、海兵団へ、特殊潜航艇の基地へと向かった。菊池兄弟の弟・文男は大村海軍航空隊で終戦を迎えたが、兄・武男は沖縄海域で戦死している。
やがて終戦。たったいままで命をやりとりした進駐軍がやって来た。生き残った徳島商のメンバーは、かつての練習場で進駐軍の野球好きと試合をした。徳島大空襲で町を壊滅させた相手。だが、両軍、なんのこだわりもない。「野球」だから――。
公式記録上、徳島商の優勝は抹殺されてきたが、昭和52年、海部俊樹文部大臣が徳島を訪れたさい、昭和17年大会の存在と優勝を証明するものとして、同校に賞状と盾を贈った。“番外証明書”であった。