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<ナンバーW杯傑作選/'93年4月掲載> カズの向こうに世界が見える。 ~Jリーグ開幕とW杯への夢~ 

text by

鈴木洋史

鈴木洋史Hiroshi Suzuki

PROFILE

photograph bySatoru Watanabe

posted2010/05/07 10:30

日の丸のユニフォームを着て、ワールドカップに出たい!
そう夢見続けてきた男が、ブラジルから帰ってきたのは'90年7月のことだった。長過ぎた低迷を打ち破るべく、プロ化に向けて走り始めたサッカー界に、
彼は強烈な刺激をもたらす。
国のために戦うことの名誉、プロフェッショナルとしての誇り――。
ワールドカップ予選を目前にした今、その存在はひと際大きく、眩い。
天賦の才能と類稀な強運に恵まれた男、カズの向こうに世界が見える――。

 今、世界が見えかけている――。

 3月14日、キリンカップ'93の日本代表対アメリカ代表戦。ほぼ満員の国立競技場のスタンドでは試合前からウェーブが起こり、メーンスタンドの下には鈴なりの報道陣が待ち構えていた。例えば中嶋悟が走っていた頃の鈴鹿サーキットにあったあの熱気。それが今、国立競技場にあり、このスポーツが確かにブームを迎えているのだと実感させてくれる。

 やがて両チームの選手がグラウンドに現れ、両国国歌を斉唱する。他の選手が小さく口ずさむだけなのに対し、カズと、カズの影響を強く受けているといわれる北澤が、右手を左の胸の上に添え、報道陣にはっきりと届く声で君が代を歌う姿が印象的だった。

 試合はそのカズが決めた。

 前半36分、右サイドからの福田のパスを、中央に走り込んでいたカズが蹴り込んで1対1の同点。これで日本の動きが途端に良くなり、それが後半23分のアメリカの自殺点を引き出して2対1。そして後半35分、またもカズだ。ドリブルで相手DFを軽くかわし、ダメ押しの3点目を叩き込んだ。

 去年4月にオフトが監督に就任して以来、3試合めから負け知らずだった日本代表は、2月のイタリア遠征で惨敗、続くキリンカップ初戦の対ハンガリー代表でも完敗し、嫌なムードが漂い始めていた。しかし、4月8日からのワールドカップ予選前の最終戦であるこの試合に勝ったことで、イタリアでの惨敗も“勉強になった”と言えるのだ。

 選手、そしてサポーターの期待――最高の晴れ舞台に初登場するという期待は再び高まった。カズのゴールのたびに、晴れた空のもと、明るいモザイク模様のスタンドで数百本の日の丸が揺れる光景がそれを雄弁に物語っていた。

そして日本サッカーは長いトンネルに入った。

 今のブームと世界への期待感にひたっているとつい忘れそうになるが、ほんの2、3年前まで日本のサッカーは長い低迷を続けていた。最後の栄光は1968年のメキシコオリンピックの銅メダルまで遡らなければならない。その前の語り草といえば、1936年ベルリンオリンピックで強豪スウェーデンに3対2で逆転勝ちした試合だ。

 突然とも思えるメキシコでの銅には理由がある。メキシコの前のオリンピックは東京大会。それに向け、日本は国をあげてあらゆる競技の強化に取り組んでおり、サッカーの日本代表も毎年のように、1、2カ月にわたる海外遠征や合宿を繰り返していた。

「そうした集中的、長期的な強化策が実って東京でベスト8になり、そのメンバーが中心になってメキシコに臨んだんです」(東京、メキシコ両大会の代表選手だった森孝慈)

 しかも、あの時は日本サッカー史上最高のストライカー釜本がいた。銅メダルは、そうした特殊な状況がもたらしたのだ。

「ところが、次の世代を育成する予算もシステムもなかったために、メキシコのメンバーが抜けるにつれて代表チームの力が落ちていってしまったんですよ」(森孝慈)

 そして、長いトンネルに入った。次の目標をワールドカップ出場に据えたものの、ワールドカップどころかオリンピックにおいてさえ予選敗退が続いたのだ。

 その後、一度だけ世界が見えかけたことがある。1985年、ワールドカップ・メキシコ大会の予選の時だ。この時の日本代表は日本サッカー史上初めて最終予選に進んだのだ。

<次ページに続く>

【次ページ】 森孝慈監督が感じたアマチュアの限界。

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