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【追悼・木内幸男監督】「勝って不幸になる人間はいない」常識を超えた60年の指導法とは 

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中村計

中村計Kei Nakamura

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photograph byShigeki Yamamoto

posted2020/11/25 06:01

【追悼・木内幸男監督】「勝って不幸になる人間はいない」常識を超えた60年の指導法とは<Number Web> photograph by Shigeki Yamamoto

県大会準決勝で藤代に破れ、球場を後にする木内。陽気な中にも寂しさが覗いた

「結果出せば、10日しか練習こない子でも」

「木内マジック」という言い方には、驚きと同時に、多少の揶揄も込められている。正攻法ではないだけに「あの人は野球は知らない」「あの人の采配は邪道」という関係者も少なくない。木内があたかも、第六感といった不確かな力を頼みにしているようなイメージも含まれているのだ。しかし、実際の木内は、そんな印象とは正反対の徹底したリアリストである。

「結果出せば、10日しか練習こない子でもレギュラーよ」

 取手二高時代、1977年夏に木内が初めて甲子園に出場したときの中心メンバーで、現在は東洋大牛久の監督を務める大野久(元中日)が話す。

「こいつは一生懸命やってるから起用しようということはまずなかった。ダメだと思ったら簡単に切っちゃう」

 木内は喝破する。

「ピッチャーは、生まれるもの。バッターも、生まれるもの。野手は、つくるものって言うんです、ハイ。長距離バッターだとか、好投手なんて、遺伝子の問題だあ」

 野手。つまりは、超高校級のエースや4番以外の選手のことである。だが、木内はその「野手」で戦えることを証明した監督でもある。

 持丸は「木内さんが投げかけたものはすごいよ」と感嘆する。

「それまでは甲子園で勝つにはプロに行けるような選手をつくらないとダメだって思っていた。でも、木内さんがそうじゃないことを示した。アンダースローのへなへなっとした投手でも甲子園で戦える。それと、茨城も甲子園に出たら勝たないとダメなんだって思わせた。これはあの人の最大の功績でしょうね」

 取手二高が優勝旗を持ち帰る前まで、茨城県勢は甲子園で3勝以上挙げたことがなかった。木内いわく「茨城県史上、最強のチームだった」という豊田泰光(元西鉄)、加倉井実(元巨人)らの超高校級打者を擁した'52年夏の水戸商でさえ、2回戦で早々に敗退している。この出来事は県内関係者の劣等感をさらに強めた。

「昔の人間だからよ、借りがあるという感情だ」

 取手二高の優勝メンバーの内の一人、小菅勲は話す。小菅は下妻二の監督として、すでに2度、甲子園出場経験を持つ。

「僕らが日本一になるまでは、ちょっと前の東北のような感覚だった。甲子園に出られれば満足。優勝なんて考えたこともなかったですから」

 木内は茨城が勝てなかった理由を「学生野球の父」と称された飛田穂州(水戸中─早大)の存在に求める。

「飛田さんは、学生野球は勝ち負けよりも修養を積む場だという考えの人だった。だから茨城の人は必勝の信念がないのよ。立派な野球をやっていくことの方が大事だという大きな流れがあったから」

 そんな本流の遡行を最初に試みたのが木内だったのだ。

 木内は県下有数の進学校である土浦一高を卒業した後、予定していた大学進学を断念し、そのまま母校のコーチを買って出る。最後の夏、センターを守っていた木内は自分のエラーで逆転負けするという屈辱を味わった。その無念を今度は指導者となって晴らそうと考えたのだ。

「昔の人間だからよ。借りがあるという感情なんだよ」

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