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“ジンキー・ファイナル” 

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鈴木直文

鈴木直文Naofumi Suzuki

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photograph byNaofumi Suzuki

posted2006/03/27 00:00

“ジンキー・ファイナル”<Number Web> photograph by Naofumi Suzuki

 セルティック史上最も偉大な選手の目に、かつて彼のメインステージだった右ウイングでプレーする痩身の東洋人の姿はどう映っていただろうか。

 中村俊輔がヨーロッパに来て最初に手にするタイトルとなったCISインシュアランス・カップ(リーグカップ)の決勝戦は、3月13日に61歳で他界した伝説的ウインガー、ジミー・ジョンストンの追悼試合となった。セルティックは全員が彼のトレードマークである7番のついたショートパンツを身に着けて試合に臨んだ。試合に先立って、ダンファームリン・サポーターも含めてスタジアム中が1分間の拍手と、“ジーミー!オー、ジミー・ジョンストン!オー、ジミー・ジョーンストン、オン・ザ・ウイィィング!”の大合唱を送った。

 その素早い身のこなしから“ジンキー”の愛称で親しまれた彼は、フットボール史上最高のエンターテイナーとも言われる。5フィート4インチの小さな身体で、イマジネーションとスピードと遊び心溢れるドリブルを武器にヨーロッパの並み居る屈強なディフェンダーを弄んだ。1967年、リスボンの地でインテル・ミラノを破り、スコットランド勢として初めてヨーロピアン・カップを制するという快挙を成し遂げた、伝説の“リスボン・ライオンズ”の中で、彼こそが“スターマン”だった。他方で、ピッチを離れれば天才らしく破天荒な武勇伝や笑い話に事欠かない。偉ぶったところが微塵も無く、常にファンと同じ視線に立つことを忘れなかった。

 その彼が、モーター・ニューロン・ディジーズという現代の医療では治癒できない難病に侵されていると診断されたのは4年前のことである。脳からの指令が的確に筋肉に伝わらなくなるため、肉体はゆっくりと確実に衰えてゆく。ジンキーにとって、それは左腕の不全に始まり、両腕、全身へと広がり、やがて声を奪い、最後は呼吸さえ奪い去った。彼は闘病中もピッチの上と同様の勇敢さと明るさを失わず、希望を捨てることが無かった。「この病気は治らない病気なんかじゃない。ただ治療の仕方がまだ分かってないってだけさ」と事も無げに言った言葉が印象的だった。

 訃報が知れ渡るや、セルティク・パークの正面玄関をファンからのメッセージが添えられた花束やユニフォーム、スカーフ、応援旗が埋め尽くした。セルティック・ファンだけではない。オールド・ファームの垣根を越えて尊敬を集めたジンキーの人柄を示すように、レンジャーズのユニフォームやスカーフも少なくない。

 日本から遠路遙々訪れた俊輔ファンの友人と筆者のために入手困難なチケットを手配してくれたジャネットは、チケットを手渡しながら言った。

 「あなた、友達を是非セルティック・パークに連れて行ってあげて。明日はハンプデン(・パーク。スコットランドのナショナル・スタジアム)だから、行く機会がないでしょう?ジミー・ジョンストンのこともよく説明してあげてね。彼が私達にとってどんなに大事な存在だったか、あれを見ればきっと分かると思うわ」

 その言葉を聞きながら、いつも陽気な彼女の悲しみに沈んだ目に見つめられて、筆者ははじめて不世出のフットボーラーの死の重みを実感として受け止めた。こうした瞬間に、フットボールというものが彼らの生活にいかに深く根ざしたものなのかを思い知らされることになる。それはたかが数年間現地に暮らしたぐらいでは到底理解することのできない性質のものだ。

 さて、試合のほうはというと、最初から最後までセルティックがコントロールしたと言う意味で、3−0というスコアラインは試合の趨勢を的確に表したものだった。ストーリー性も、ジンキーを送るのに申し分ない。前半終了間際の先制点を、7番を受け継いだズラウスキが押し込み、残り15分には、プレースタイルと風貌に偉大な先人の香りを漂わせないでもないマローニーが素晴らしいFKで試合を決めた。ロスタイムには36歳のディオン・ダブリンが移籍初ゴールで駄目を押した。ゴールのたびに、ハンプデン・パークは"ジミー・ジョンストン、オン・ザ・ウイング"の大合唱に包まれた。

 しかし純粋な試合内容に限っていえば、見所の乏しい退屈な90分だった。先月の1−8という大敗が頭に残るダンファームリンは、決勝の舞台で同じ恥をかいてはならぬ、とばかりに、徹底して守りを固める戦術を採用した。「ジミー・ジョンストンは天国でイビキをかいていただろう」(The

Scottish Sun)と言われるほど、エンターテイメント性という意味では物足りない試合だった。

 それでも中村の左足は、いつもと変わらず何も無いところから決定機を作り出した。試合開始からあわやオウンゴールというシーンや、キーンの決定的なヘディング・シュートを導き出すなど、セットプレーで存在感を発揮した。試合を決めた2点目のFKを得たのも中村だ。ペナルティ・エリア左手前からマローニーがドリブルで立て続けに3人をかわしながら中央に切り込む。叩いたパスを中村が受けると、ディフェンダーはたまらず足を引っ掛けた。マローニーが右足で放ったFKは壁とGKを超えてゴール左上隅に決まった。試合後、ストラカンが語った数少ない「ジミーが喜んだ瞬間」の一つはこのシーンだったに違いない。

 週明けの新聞は、概ねマローニーとキーンに次いで高い得点をつけるものが多かった。ジミー・ジョンストンの後継者という意味では、左ウイングでプレーするドリブラーのマローニーの方が近いかもしれない(身長もマローニーの方が1インチ高いだけだ)が、中村はそのメンタリティにおいて比較されるという栄誉に浴した。「ディフェンダーに倒され続けても、彼の闘志は一向に衰えない様子で、そのスキルは輝き続けた。誰かを思い出しませんか?」(The

Herald)小さな身体で屈強なディフェンダーに何度も勝負を挑む勇敢さは、ジミー・ジョンストンが賞賛された理由の一つであり、それは中村にも共通するものだ。

 中村自身にとっても、セルティックというクラブが持つ伝統の重みを実感した1週間だったようだ。試合後は、全選手が7番にJOHNSTONEの文字の入ったシャツに着替え、ジョンストン本人が歌う"ダーティー・オールド・タウン"が流れる中、リーグカップと共に場内を一周した。“ユー・ウィル・ネバー・ウォーク・アローン”が流され、最後にまた“ジミー・ジョンストン、オン・ザ・ウイング”が繰り返し叫ばれた。優勝杯を掲げる中村は少し遠慮がちで、まだ本当の“セルティックマン”になりきれていないように見えた。無理もない。手にしたタイトルはまだたった1つなのだ。41年前に自身初のタイトルとしてやはりリーグカップを頂いたジョンストンは、その2年後にリスボンの地で伝説となった。中村が胸を張って「セルティックこそわがクラブ」と語れるときが来るとしたら、それは彼自身の伝説が築かれたあとなのかもしれない。

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