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伝説の人「タナケン」の静かすぎる死を悼む。 

text by

大串信

大串信Makoto Ogushi

PROFILE

posted2008/01/31 00:00

 田中健二郎氏が昨年12月29日に亡くなっていたことを今年になって知った。74歳の誕生日目前というタイミング、日本人男性の平均寿命にも至らない他界である。氏が日本のレース界に対して為した仕事の大きさを思うと、そのあまりにもあっけなく密やかな報せに呆然とせざるをえなかった。

 田中は15歳でオートレースの世界に身を投じ大活躍して頂点を極めた後、突然引退してホンダの契約ライダーとして二輪ロードレースに転向、1960年のドイツGPでは世界の強豪相手に3位に入賞、日本選手として世界GPで初めて表彰台に上がっている。

 だが、田中の功績はこの後、レース中の事故で重症を負い二輪ロードレースの現役を退いてからの仕事の方が大きい。彼はホンダの後援を得てテクニカルスポーツと名付けたチームを結成、全国各地を巡ってはめぼしい才能を発掘して若手選手の育成に力を注いだのだ。永松邦臣、高武富久美らはテクニカルスポーツ出身の人々だ。

 その後、田中は乞われて日産の四輪チームに加入するが、そのときにはホンダ系の二輪選手であった高橋国光、北野元を帯同して四輪へ転向させるとともに、長谷見昌弘を発掘している。これら田中系の選手たちは、初期の国内四輪レースの繁栄を導くスター、原動力となるとともに、現在も国内レース界を支えている。

 田中自身は'74年に四輪の現役を退き、自らのチームを率いたりTV解説者として活躍した時期もあったが、'80年代にはレース界から身を引いてサーキットには姿を見せなくなった。最後にレース界に関わったのは、2000年のスーパー耐久シリーズ第7戦のことだったか。それ以降は、一部の人間が所在を知るばかりの伝説の人となっていた。

 四輪転向後の田中自身は、現役ドライバーとしては必ずしも華々しい活躍をしたわけではなかったが、歯に衣着せぬ論評や解説は、国内四輪レース界の基盤を人間の面から形作った自信に満ちていた。

 敢えて愛称であった「タナケン」と呼ぼう。タナケンさんは、サーキットにいるだけでひとつの風景になる数少ない個性人であり、国内モータースポーツ史に刻まれるべき功労者であった。その静かすぎる引き際に合掌するばかりだ。

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