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三笘薫のドリブラーとしての覚醒は「涙の夏」から…川崎F恩師「いま思えば強要だった」の真意とは?<三笘のブチ切れ秘話も>

2023/06/25
小学生の頃はボランチやサイドバックでプレーしていた三笘
12歳の少年がドリブルを始めた。監督に言われて仕方なく。体格の差に悩まされ、何度も失敗し、仲間に怒鳴られても、人一倍負けず嫌いな彼が歩みを止めることはなかった――。世界最高峰の武器が生まれるまでの、求道者の軌跡を紐解く。

 18歳の夏だった。場所は麻生グラウンド。高校年代の公式戦でキックオフから5人、6人を抜き去って幼馴染が決めたゴールは、いまも脳裏に焼き付いているシーンの一つだ。

 現在、世界最高峰と言われるイングランド・プレミアリーグで1年目から活躍するブライトンのドリブラーを見ると、昔の鮮烈な記憶が次から次によみがえってくる。小学校1年生の終わりから高校3年生までの11年間、さぎぬまSC、川崎フロンターレのアカデミーで三笘薫と切磋琢磨してきた同期の岸晃司は、しみじみと話す。

「高校まではスピードでぶっちぎる場面はあまりなかったですが、タイミングをずらして、ヌルヌルと抜いていく独特のドリブルは、昔の薫のままだなって。ボールを運びながら右足のアウトサイドで出すパスもそう。もとはフロンターレのジュニア(U-12)時代に教えられたものです」

 ランドセルを背負っていた頃は、ほぼ毎日一緒に時間を過ごしていた。互いの自宅は徒歩数分の距離。3年生を迎える前にさぎぬまSCから川崎F U-12.1期生のセレクションを受け、そろって狭き門を突破。100人以上が受験した中で合格した2年生は3人のみだった。

 選考に関わった川崎F U-12元監督の高崎康嗣(現フガーリオ川崎アドバイザーほか)は、17年前の冬のことをよく覚えている。

「2人とも飛び抜けた存在でした。すでに相手を見てサッカーができていましたから。薫は楽しそうにボールを蹴っていましたよ。ギリギリでプレーを変えられる目と、一瞬の動きの速さを見て、『これは化けるかも』と思いました」

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photograph by Yuki Suenaga

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