甲子園の風BACK NUMBER
夏春連覇、日本中が熱狂した池田高校野球部に起きた“異変”…なぜ甲子園から“消えた”のか?「美談は言わないよ」あの名物監督に次々と新証言
text by

田中仰Aogu Tanaka
photograph byAFLO
posted2026/07/25 11:02
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
原の話を聞き終えたわたしは、現在の池田野球部監督、井上力に取材するため、グラウンドへ向かった。
井上は、蔦文也が甲子園優勝に導いた最後の代、一九八七年卒業の生徒である。日体大を経て一度は中学校教諭の職を得たが、高校野球監督の夢を諦めきれず、採用試験を受け直して高校教師になった。勝浦高校、徳島商業、穴吹高校の野球部監督を歴任し、二〇一六年から母校の監督に就いた。
「蔦先生から何も教えてもらっていないんです」
二〇二五年夏の野球部員数は五六人で、その七割は県外出身者だ。徳島県内の中学三年の生徒数は、池田野球部の全盛期であった四〇年前からほぼ半減している。県外生徒を受け入れないことには生徒数が定員を大きく割り込んでしまうのだ。
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井上は選手勧誘、いわゆるスカウト活動をやっていない。それでもかつての池田を知る親が、子に池田への進学を勧めるケースは少なくない。そこに蔦文也がもたらした黄金期の残照を見る。
蔦がいた池田が甲子園で勝てた理由。井上はその不思議さを語った。
「蔦先生から何も教えてもらっていないんですよ。蔦先生から何かを感じて、認めてもらうために練習する。そんな世界でした」
慣れた口調で、蔦のエピソードを話した。
「血液型を聞かれることがありました。野球に向いてる子はB型とO型や、とか、次男と三男がええんや、みたいなことを言っていましたね」
池田高校はなぜ甲子園に出られなくなった?
池田が甲子園から消えた理由として、井上は時代の変化を挙げた。
「昔は“オール徳島”でした。県内の野球がうまい中学生が進学する筆頭の高校、それが池田だった。ただ、甲子園から離れると、有望中学生が池田以外に流れるようになりました。そうすると、入学してくる生徒のレベルを何段階も上げる必要があります。あれほど近かった甲子園への道筋が消えて、ジャングルの中を彷徨っている状態です」
勝てなくなった理由を井上から聞きながら、しかし、わたしの関心は蔦その人へ向いていた。
一介の高校教師である蔦がチームを率い、都会の強豪校を倒して全国優勝へ導いた。それも当時、高校スポーツの人気ナンバーワン競技であった野球において、である。

