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高校野球“あの名門公立校”が甲子園から消えた「大の酒好き」「攻めダルマと呼ばれ…」池田高校の名物監督・蔦文也はなぜ“日本中で愛された”のか? 

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田中仰

田中仰Aogu Tanaka

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posted2026/07/25 11:00

高校野球“あの名門公立校”が甲子園から消えた「大の酒好き」「攻めダルマと呼ばれ…」池田高校の名物監督・蔦文也はなぜ“日本中で愛された”のか?<Number Web> photograph by AFLO

1982年、夏の甲子園で初優勝を果たし喜ぶ蔦文也監督と池田高校の選手たち

 降りる客はまばらであった。列車が停車している間、わたしは窓に顔を近づけて、できる限り外の風景を観察しようとした。駅周辺に高い建物がなく、遠方の山だけが望めた。にわかに去来した感情は、極めて月並みな表現であるが、感動だった。

 こんな田舎にある公立校が甲子園で三度も優勝するという奇跡が、本当に起きたのか。

かつて池田の野球は“革命的”だった

 ナンバーWeb編集部に、池田のルポルタージュ記事を提案したのは、それから二年後の七月だった。企画は通過した。一九七四年生まれの編集長が、池田野球部のファンであったことはのちに知った。

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 二〇二五年夏、池田高校の取材をはじめた。

 池田野球部には語り尽くされてきた定説がある。最初の現地取材を前に把握していた、大きな流れはこうだ。

 池田は徳島の県立高校である。高校野球最高峰の全国大会・甲子園で優勝三度、準優勝二度、ベスト四入り三度の成績を残している。蔦文也という社会科教師が、監督として野球部を率いていた。蔦はその顔貌と戦術から「攻めダルマ」と呼ばれ、打撃に特化したチームを作りあげた。甲子園を初めて制した一九八二年夏、池田はチーム本塁打数、安打数で当時の新記録を打ち立てた。

 守備と小技が重視されていた八〇年代初頭の高校球界で、豪快に打ち勝つ池田の野球は革命的であった。超攻撃野球を支えていたのが他校に先駆けて取り入れたという筋力トレーニングで、飛距離の出やすい金属バットへの移行も、池田躍進の追い風となった。

なぜ蔦は“日本中で愛された”のか?

 蔦は大の酒好きでも知られた。甲子園中継のインタビューでは冗談を交えながら阿波弁で応えた。

 池田の快進撃にカタルシスを覚えたのは地元の町民だけではなかった。蔦の語り口は日本人にそれぞれの故郷を想起させた。都会の強豪を次々に倒す地方公立校の監督。シルバーヘアをなびかせた武骨な風貌。カメラが向けば名言を放ち、丸刈り球児に人生訓を説いた。まるで漫画に出てきそうな「大酒飲みの傑物監督」というキャラクターは野球に興味のない層にまで浸透した。その意味で蔦は、日本で最も愛された高校野球監督といえた。

 だが一九九二年に蔦が監督を退任して以降は低迷し、その年を最後に池田は夏の甲子園から姿を消した。蔦は二〇〇一年に他界している。

【次ページ】 部内に蔦への“反発”もあった?

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