輝かしい実績とともに人々に感動を与えた名選手たち。しかし、強く思いを馳せた舞台にその姿はなかった。栄光と挫折の狭間で苦悩を味わった2人が、それぞれの最後の箱根を振り返る。
待ちこがれていた舞台に立てず、勝負すらできなかった者たちがいる。
4年生で挑む、最後の箱根駅伝。メンバーから漏れた日のことを、尾方剛は努めて明るい口調で振り返った。
「まあ出られないのはわかっていたことなので、涙とかはなかったですね」
第72回(1996年)箱根駅伝、当時の山梨学院大学は優勝候補の一角に挙げられ、尾方は本来ならばそこでエースの役割を担うはずだった。後にマラソン日本代表として世界選手権で銅メダルを獲得する逸材だ。2年生の時にはアンカー区間を走って区間賞も取っている。だが、メンバー発表が行われる武田神社の境内で、4年生の尾方の名が呼ばれることはなかった。
「その時、なんか気持ちが軽くなったんですよ。箱根に出ないといけないという思いが強すぎて、逆にそこで自分の名前が呼ばれずにホッとしたというか。もう耐えなくて良いんだ。悩まなくて良いんだって。そこまでが苦しすぎましたから」
舞台が暗転したのは、皮肉にも2年前の成功体験が切っ掛けだった。スポーツ紙が一面で山梨学大の大会新記録での箱根駅伝優勝を伝え、そこには両手を突き上げてゴールする尾方の写真があった。地元甲府市では優勝パレードが開かれ、活躍した選手は一躍時の人となる。翌月のバレンタインデーには50個ものチョコレートが全国から尾方の元に届いたという。
「入学してからはケガ続きで、初めて走る公式戦が箱根でした。その年の9月くらいからようやく走り始めることができて、箱根も決して本調子では無かったんです。それでああいう結果になったので、ちょっと天狗になったんでしょうね」
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photograph by Takuya Sugiyama