道が途切れそうになった時、チャンスを与えてくれたのは社会人野球だった。プロでは得られない学びと喜び。2人はどのように雌伏の時を過ごしたのだろうか。
2019年の都市対抗野球大会決勝で始球式の依頼を受けた落合博満は、快諾しつつも一つの条件を出した。
「私が所属した時の、東芝府中のユニフォームを完全に再現してほしい」
デザインだけなら簡単だが、当時のベルトレスタイプを縫製できる工場は数えるほどしかなく、受注したメーカーが苦心の末に製作する。それを纏った落合は「これが、俺を育ててくれた東芝府中だよ」と笑顔でマウンドに立った。
秋田工高では、鉄拳制裁を伴う野球部の上下関係に嫌気がさして入退部を繰り返した。卒業時、新日本製鉄釜石のセレクションには合格したが、周囲の勧めもあって東洋大へ進学。居心地は悪くなかったものの、人疲れしたところにケガも重なり、仲間のもとを去る。しばらくは郷里の秋田で日々をやり過ごしていたが、本来の落合は文武両道の優等生だ。20歳までには自立しなければいけないと、秋田工高野球部長の伝手で東芝府中の臨時工に。それは、野球を続けるための道というより、安定した生活を営むためのラストチャンスだった。
中日の監督として、選手の将来を預かるようになった頃、落合はよくこう口にした。
「東芝府中に育てられたと思うのは、若い頃に身を置く環境で人生は左右されると実感したから。当時の東芝府中には、私のように地方の高校を卒業して上京した社員が多かった。同世代なら話も合うし、東北弁が聞こえるとホッとする。野球部にも強豪にありがちな封建的な雰囲気はなく、人間関係を気にせず野球に打ち込むことができた」
特製トートバッグ付き!
「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています
photograph by KYODO/SPORTS NIPPON