#1006
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<震災2日後の熱狂を語り合う> 川田利明×小橋建太「折れない2人の60分」

2020/07/03
1995.1.19 川田利明×小橋健太(大阪府立体育会館 三冠ヘビー級選手権)三冠王座の初防衛がかかる川田と初戴冠に挑む小橋。満員の5600人の観衆が見守る中、三冠戦初のドロー決着に。
三冠初防衛に臨む川田と、被災地の親族に連絡が取れないまま挑む小橋。決着を超えた一戦は、交通網が麻痺する中で集まった観衆の「ゼンニッポン」コールを呼んだ。2人が初めて語らう、伝説の激闘の記憶。(Number1006号掲載)

 1995年1月17日、6000人以上の犠牲者を出した阪神・淡路大震災。それからわずか2日後の19日、大きな被害を受けた大阪でプロレス史上に残る名勝負が生まれた。大阪府立体育会館で川田利明に小橋健太(現・建太)が挑戦した三冠ヘビー級選手権である。

 当時の全日本プロレスは、反則、両者リングアウトなどの不透明決着を排除した「完全決着」の三沢光晴、川田、田上明、小橋による四天王プロレス全盛期。しかし川田と小橋はまるで被災者を励ますように60分を戦い抜き、震災直後にもかかわらず満員となった客席からは「ゼンニッポン」コールが鳴り響いた。この一戦は今なお伝説のベストバウトとして語り継がれている。

――あの日は震災直後で大阪の街も混乱していて、大会を開催するべきかどうか、全日本プロレスとしても判断は難しかったと思います。(ジャイアント)馬場さんから何か相談はあったんですか?

川田 何もなかったよな(苦笑)。そういう話し合いにウチらは加わらないもん。やり終わってから「やってよかった!」とは思ったけど、お客さんが集まってくれるかどうかわかんない状況だったでしょ。ガラガラの中でやるのは選手にとっては結構辛いし、被災したお客さんだって辛いだろうし「やるべきではないんじゃないか」とは思ってたね、やる前は。

小橋 震災があった時にすぐに京都の母親に電話したんですけど、翌日まで通じなくて、兵庫の祖母は試合当日も通じませんでした。でも、やるって決まった以上は、試合に向けて全力を出さないと、来てくれたファンに失礼というか、そこでプロレスの力を見せないとプロレスラーじゃないなと。みんなが連絡が取れないような辛い状況にある中でプロレスラーに何ができるかって言ったら、やっぱりプロレスを一生懸命やることだけ。プロレスの力っていうのは、興味のない人には届かないかもしれないけど、プロレスを好きな人から元気をもらって、それで元気が広がっていくかもしれない。プロレスがひとつのキーになって、思いが繋がっていけばいいなと思いました。

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photograph by Takeshi Yamauchi

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