1995年、広澤は野村ヤクルト最大のライバル・長嶋巨人にFA移籍する。悩みに悩んだ末、「やらなかった後悔」より「やってしまった後悔」を選んだ結論だった / photograph by Sankei Shimbun 1994年12月、広澤と広島の川口和久の巨人へのFA移籍が発表された ©Sankei Shimbun 憧れの人・長嶋監督の天性の勝負勘はすごかった ©Hideki Sugiyama 実は長嶋監督もデータを重視しつつ、そこに本能的な勘が加味されていたのだという ©Naoya Sanuki 故障や年齢による変化を前に、広澤は「野村ノートに書かれていないこと」に直面した ©Toshiya Kondo 移籍初年度は20本塁打、97年にも22本塁打を記録した。だが99年はキャリア最低の16試合出場に終わる ©JIJI PRESS 阪神時代の野村監督。1年目、2年目と一時は首位に立った時期もあったが、結局在任した3年連続で最下位に終わった ©JIJI PRESS 広澤克実 ©NumberWeb 陸上部よりも走らされ、走って野球がうまくなるならマラソン選手がホームラン王だろ! と悪態をついていた広澤たちに野村監督がかけた声とは…… ©Naoya Sanuki(L)/Koji Asakura(R) 3球団を渡り歩いた広澤克実が見た「3人の名将」とは ©NumberWeb 1987〜89年ヤクルトを指揮した関根潤三監督。成績は振るわなかったが、広澤、池山隆寛ら若手を育て上げてのちの飛躍の基を築いた ©Makoto Kemmisaki 1989年の広澤。ひたすら走らされ、バットを振らされていたという ©Takahiro Kohara 野村の言葉通り、3年目の92年にはリーグ優勝し、日本シリーズで西武と死闘を繰り広げることに ©Koji Asakura 1993年には悲願の日本一を達成する ©Takao Yamada 2009年に広澤がNumberで語った、野村野球の神髄をまとめた「野村ノート」 ©Toshiya Kondo 野村ID野球は今も広澤の野球観の大きな基盤になっている ©Naoya Sanuki 93年の日本一にも不動の四番打者として貢献した広澤だったが… ©Takao Yamada 星野監督の闘将ぶりは健在だった ©JIJI PRESS 憧れの人・長嶋監督の天性の勝負勘はすごかった ©Hideki Sugiyama 「理と情の名将」野村監督 ©Kazuaki Nishiyama 3年連続最下位の阪神監督に星野が就任したのには前監督・野村の推薦もあったと言われる ©Hideki Sugiyama 40歳となって代打が多くなっていたものの、星野監督時代の広澤の打棒は復調していた ©JIJI PRESS 3人の名将と出会い、3つの球団で四番を打ち、すべてでリーグ優勝という稀有な体験をした広澤 ©Naoya Sanuki(L)/JIJI PRESS(C/R) 現在はポニーリーグの理事長を務めるなど、名将たちからの学びを自分なりに消化し、野球の普及に尽力する ©NumberWeb 阪神時代の広澤 ©JIJI PRESS 巨人時代の広澤。高橋由伸と談笑 ©Hideki Sugiyama 1996年、ヤクルトに移籍した田畑は憧れの長嶋監督とツーショット(本人提供)。後に長嶋巨人にトレードされることになろうとは ©Kazuya Tabata ヤクルト時代の田畑。97年には15勝を挙げたが、98、99年は不本意な成績に終わった ©Naoya Sanuki 草野球で無双していた大工だった田畑。テストからドラフトどんじりで入団し、トレードされて日本一チームの優勝に貢献という波乱万丈の野球人生を語った ©Naoya Sanuki 野村監督は移籍早々から田畑を高評価したという ©Takao Yamada 田畑は次第に先発として自信をつけていった ©Hideki Sugiyama 野村監督とプレーした3年間は「めちゃくちゃ濃い時間だった」という田畑 ©Koji Asakura 97年には西武との日本シリーズを制する。田畑(左)は第2戦で初のシリーズ先発を果たしたが初回でノックアウトされてしまった ©Kazuaki Nishiyama ヤクルト時代の長嶋一茂 ©Naoya Sanuki ヤクルト時代の長嶋一茂 ©Naoya Sanuki ヤクルト時代の長嶋一茂 ©Naoya Sanuki ヤクルト時代の長嶋一茂 ©Naoya Sanuki 1987年、ドラフト1位でヤクルトに入団した長嶋一茂。実はドラフト数日前、ヤクルトのスカウト部長のもとには父・茂雄から1本の電話が ©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳) ©BUNGEISHUNJU ヤクルト時代の一茂。直球に対してだけなら「1億円プレーヤーだった」 ©BUNGEISHUNJU ヤクルト時代の一茂 ©BUNGEISHUNJU くわえタバコで新聞を読む長嶋茂雄。外には女学生たちの姿が ©BUNGEISHUNJU 息子に引き継がれた長嶋茂雄のフルスイング ©BUNGEISHUNJU 現役晩年の長嶋茂雄。ベンチでもこの貫禄 ©BUNGEISHUNJU 1974年10月14日、長嶋茂雄の現役ラストゲームのロッカールーム ©BUNGEISHUNJU 1990年、“浪人時代”の長嶋茂雄 ©Tomohiko Hayashi 田園調布の実家での貴重な1枚。写真左端が長男・一茂 ©BUNGEISHUNJU 子どもたちと戯れる長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 子どもたちと戯れる長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 1970年撮影…理容室で ©BUNGEISHUNJU 激レアな散髪姿 ©BUNGEISHUNJU 新幹線で神対応 ©BUNGEISHUNJU 新幹線で神対応 ©BUNGEISHUNJU 取材もひっきりなし ©BUNGEISHUNJU 2005年、父・茂雄氏と東京ドームで。右は渡辺恒雄氏 ©BUNGEISHUNJU 2005年、父・茂雄氏と東京ドームで ©BUNGEISHUNJU 石原裕次郎の二十三回忌に出席する長嶋茂雄と長男・一茂 ©Miki Fukano 石原裕次郎の二十三回忌に出席する長嶋茂雄と長男・一茂 ©Miki Fukano 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 限界説も囁かれた1970年の長嶋 ©BUNGEISHUNJU 世田谷の自宅で素振りする長嶋 ©BUNGEISHUNJU 1970年撮影 ©BUNGEISHUNJU 1970年撮影 ©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 阪神の村山実からヒットを放つ長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 長嶋茂雄と王貞治 ©BUNGEISHUNJU 長嶋茂雄の華麗な守備 ©BUNGEISHUNJU 長嶋茂雄の華麗な守備 ©BUNGEISHUNJU 誰もが憧れた「背番号3」 ©BUNGEISHUNJU 真剣な表情で打席に立つ長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 1974年10月14日、現役ラストゲームのロッカールーム ©BUNGEISHUNJU 現役ラストゲームでの長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 引退試合の打席に立つ長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU グラウンドを一周し、タオルで涙をぬぐう長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 山部太。1995年には16勝7敗、防御率3.83。2度の完封勝利も記録した ©Koji Asakura 1993年、前年度の日本シリーズで激闘の末西武に敗れた借りを返し、日本一となったヤクルト ©Masato Daito 山部の前年度のドラフト1位・伊藤智仁は前半戦だけで故障離脱したものの、4完封を含む7勝、防御率0.91という驚異的な活躍で新人王を獲得 ©Kazuaki Nishiyama 「ID野球」を掲げて90年代ヤクルト「中興の祖」となった故・野村克也監督。野村イズムは今もスワローズに生きている ©Takao Yamada 1992年頃の野村克也監督 ©Koji Asakura ノムさんのお茶目な表情 ©Keiji Ishikawa 野村野球の申し子、古田敦也。90年代の黄金時代の中核だった。強肩強打で3割を8度も記録 ©Koji Asakura 宝刀シンカーを武器に絶対的クローザーを務めた高津臣吾。NPB通算286セーブ、セーブ王4度。監督としても2021、22年にリーグ連覇を果たす ©Koji Asakura 全盛期の高津-古田の黄金バッテリー ©Tadashi Shirasawa 古田敦也と高津臣吾の黄金バッテリー ©Naoya Sanuki 「ブンブン丸」から背番号1を継承して「ミスター・スワローズ」となった池山隆寛の若手時代 ©Naoya Sanuki 1995年に巨人にFA移籍するまで不動の4番だった広沢克己。池山との「イケトラコンビ」で野村ヤクルトを引っ張った ©Koji Asakura 飯田哲也。野村監督に俊足強肩を見出されて捕手→二塁手→中堅へコンバート。長く1番打者を務め「足なら誰にも負けない 韋駄天飯田」と歌われた ©Takahiro Kohara 1995年日本シリーズで、中嶋聡の守るホームに突入する真中満。のちにふたりとも監督となりリーグ優勝を果たすことになった ©Takahiro Kohara 1988年ドラフト1位の川崎憲次郎。故障で苦しんだのちにシュートを覚えて復活、98年には17勝を挙げて最多勝を獲得した ©Kazuaki Nishiyama 1989年ドラフト1位の西村龍次。入団から4年連続2桁勝利をマーク ©Kazuaki Nishiyama 1990年ドラフト1位の岡林洋一。史上屈指の名シリーズ、92年の対西武でエースとして第1、4、7戦に完投した激投は忘れ難い ©Naoya Sanuki 1991年ドラフト1位の石井一久。最初のヤクルト時代に5度の2桁勝利をマークし、2002年移籍したドジャースでも先発として活躍した ©Hideki Sugiyama 1992年ドラフト1位の伊藤智仁。「高速スライダー」を武器に圧倒的投球で93年の新人王を獲得したが、その後長く故障と戦うことに ©Koji Asakura 1985年ドラフト1位の伊東昭光。88年にクローザーとして18勝を挙げ、史上初の「オール救援、規定投球回数未達」での最多勝という珍しい記録を樹立 ©Hideki Sugiyama 1990、91年の開幕投手を務め「ギャオス」のニックネームで人気を博した内藤尚行 ©Koji Asakura 1982年ドラフト1位で「大ちゃんフィーバー」を巻き起こした荒木大輔。長く故障に苦しんだが92年途中の復活登板でチームを勢いづけ優勝に導いた ©Kazuaki Nishiyama 土橋勝征。堅実な守備とバットを短く持っての粘り強い打撃で、90年代〜00年代半ばまでヤクルト一筋に支えた功労者。村上春樹の“推し”としても知られる ©Koji Asakura 2015年、監督に就任するといきなり2年連続最下位だったスワローズを優勝に導いた真中満氏の“合理的マネジメント”とは? ©Hideki Sugiyama 2014年に29本塁打をマークしてブレークした山田哲人は、2015年トリプルスリーを記録することに ©Nanae Suzuki 2015年41セーブでセーブ王を獲得したバーネット ©Hideki Sugiyama 2015年、雄平(右端)のサヨナラ打で優勝決定。前代未聞、神宮球場の外野でビールかけが行われた ©Hideki Sugiyama 真中監督「安堵」の胴上げ ©Hideki Sugiyama 1997年日本シリーズ第2戦。このシリーズ全試合に1番センターで出場した真中満が野村克也監督から受けた影響は大きいという ©Hideki Sugiyama 1997年のヤクルトには自由さもあった。真中と一緒に勝利を喜ぶデュウェイン・ホージーは底抜けの明るさで人気者だった ©Kazuaki Nishiyama 野村監督はマスコミを使って選手にメッセージを伝えるのが上手かった ©Koji Asakura 1995年、オリックスとの日本シリーズ第1戦に勝利したヤクルトナイン ©Hideki Sugiyama 1997年、西武との日本シリーズでの真中の守備 ©Koji Asakura 1997年、西武との日本シリーズに勝利して日本一の胴上げ。野村克也監督にとっては最後の優勝だった ©Koji Asakura 1997年、西武との日本シリーズに勝利。古田敦也、高津臣吾、石井一久らの姿が見える ©Koji Asakura

現在はポニーリーグの理事長を務めるなど、名将たちからの学びを自分なりに消化し、野球の普及に尽力する ©NumberWeb

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1995年、広澤は野村ヤクルト最大のライバル・長嶋巨人にFA移籍する。悩みに悩んだ末、「やらなかった後悔」より「やってしまった後悔」を選んだ結論だった / photograph by Sankei Shimbun 1994年12月、広澤と広島の川口和久の巨人へのFA移籍が発表された ©Sankei Shimbun 憧れの人・長嶋監督の天性の勝負勘はすごかった ©Hideki Sugiyama 実は長嶋監督もデータを重視しつつ、そこに本能的な勘が加味されていたのだという ©Naoya Sanuki 故障や年齢による変化を前に、広澤は「野村ノートに書かれていないこと」に直面した ©Toshiya Kondo 移籍初年度は20本塁打、97年にも22本塁打を記録した。だが99年はキャリア最低の16試合出場に終わる ©JIJI PRESS 阪神時代の野村監督。1年目、2年目と一時は首位に立った時期もあったが、結局在任した3年連続で最下位に終わった ©JIJI PRESS 広澤克実 ©NumberWeb 陸上部よりも走らされ、走って野球がうまくなるならマラソン選手がホームラン王だろ! と悪態をついていた広澤たちに野村監督がかけた声とは…… ©Naoya Sanuki(L)/Koji Asakura(R) 3球団を渡り歩いた広澤克実が見た「3人の名将」とは ©NumberWeb 1987〜89年ヤクルトを指揮した関根潤三監督。成績は振るわなかったが、広澤、池山隆寛ら若手を育て上げてのちの飛躍の基を築いた ©Makoto Kemmisaki 1989年の広澤。ひたすら走らされ、バットを振らされていたという ©Takahiro Kohara 野村の言葉通り、3年目の92年にはリーグ優勝し、日本シリーズで西武と死闘を繰り広げることに ©Koji Asakura 1993年には悲願の日本一を達成する ©Takao Yamada 2009年に広澤がNumberで語った、野村野球の神髄をまとめた「野村ノート」 ©Toshiya Kondo 野村ID野球は今も広澤の野球観の大きな基盤になっている ©Naoya Sanuki 93年の日本一にも不動の四番打者として貢献した広澤だったが… ©Takao Yamada 星野監督の闘将ぶりは健在だった ©JIJI PRESS 憧れの人・長嶋監督の天性の勝負勘はすごかった ©Hideki Sugiyama 「理と情の名将」野村監督 ©Kazuaki Nishiyama 3年連続最下位の阪神監督に星野が就任したのには前監督・野村の推薦もあったと言われる ©Hideki Sugiyama 40歳となって代打が多くなっていたものの、星野監督時代の広澤の打棒は復調していた ©JIJI PRESS 3人の名将と出会い、3つの球団で四番を打ち、すべてでリーグ優勝という稀有な体験をした広澤 ©Naoya Sanuki(L)/JIJI PRESS(C/R) 現在はポニーリーグの理事長を務めるなど、名将たちからの学びを自分なりに消化し、野球の普及に尽力する ©NumberWeb 阪神時代の広澤 ©JIJI PRESS 巨人時代の広澤。高橋由伸と談笑 ©Hideki Sugiyama 1996年、ヤクルトに移籍した田畑は憧れの長嶋監督とツーショット(本人提供)。後に長嶋巨人にトレードされることになろうとは ©Kazuya Tabata ヤクルト時代の田畑。97年には15勝を挙げたが、98、99年は不本意な成績に終わった ©Naoya Sanuki 草野球で無双していた大工だった田畑。テストからドラフトどんじりで入団し、トレードされて日本一チームの優勝に貢献という波乱万丈の野球人生を語った ©Naoya Sanuki 野村監督は移籍早々から田畑を高評価したという ©Takao Yamada 田畑は次第に先発として自信をつけていった ©Hideki Sugiyama 野村監督とプレーした3年間は「めちゃくちゃ濃い時間だった」という田畑 ©Koji Asakura 97年には西武との日本シリーズを制する。田畑(左)は第2戦で初のシリーズ先発を果たしたが初回でノックアウトされてしまった ©Kazuaki Nishiyama ヤクルト時代の長嶋一茂 ©Naoya Sanuki ヤクルト時代の長嶋一茂 ©Naoya Sanuki ヤクルト時代の長嶋一茂 ©Naoya Sanuki ヤクルト時代の長嶋一茂 ©Naoya Sanuki 1987年、ドラフト1位でヤクルトに入団した長嶋一茂。実はドラフト数日前、ヤクルトのスカウト部長のもとには父・茂雄から1本の電話が ©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳) ©BUNGEISHUNJU ヤクルト時代の一茂。直球に対してだけなら「1億円プレーヤーだった」 ©BUNGEISHUNJU ヤクルト時代の一茂 ©BUNGEISHUNJU くわえタバコで新聞を読む長嶋茂雄。外には女学生たちの姿が ©BUNGEISHUNJU 息子に引き継がれた長嶋茂雄のフルスイング ©BUNGEISHUNJU 現役晩年の長嶋茂雄。ベンチでもこの貫禄 ©BUNGEISHUNJU 1974年10月14日、長嶋茂雄の現役ラストゲームのロッカールーム ©BUNGEISHUNJU 1990年、“浪人時代”の長嶋茂雄 ©Tomohiko Hayashi 田園調布の実家での貴重な1枚。写真左端が長男・一茂 ©BUNGEISHUNJU 子どもたちと戯れる長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 子どもたちと戯れる長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 1970年撮影…理容室で ©BUNGEISHUNJU 激レアな散髪姿 ©BUNGEISHUNJU 新幹線で神対応 ©BUNGEISHUNJU 新幹線で神対応 ©BUNGEISHUNJU 取材もひっきりなし ©BUNGEISHUNJU 2005年、父・茂雄氏と東京ドームで。右は渡辺恒雄氏 ©BUNGEISHUNJU 2005年、父・茂雄氏と東京ドームで ©BUNGEISHUNJU 石原裕次郎の二十三回忌に出席する長嶋茂雄と長男・一茂 ©Miki Fukano 石原裕次郎の二十三回忌に出席する長嶋茂雄と長男・一茂 ©Miki Fukano 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 限界説も囁かれた1970年の長嶋 ©BUNGEISHUNJU 世田谷の自宅で素振りする長嶋 ©BUNGEISHUNJU 1970年撮影 ©BUNGEISHUNJU 1970年撮影 ©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 新人時代の長嶋茂雄(当時22歳)©BUNGEISHUNJU 阪神の村山実からヒットを放つ長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 長嶋茂雄と王貞治 ©BUNGEISHUNJU 長嶋茂雄の華麗な守備 ©BUNGEISHUNJU 長嶋茂雄の華麗な守備 ©BUNGEISHUNJU 誰もが憧れた「背番号3」 ©BUNGEISHUNJU 真剣な表情で打席に立つ長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 1974年10月14日、現役ラストゲームのロッカールーム ©BUNGEISHUNJU 現役ラストゲームでの長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 引退試合の打席に立つ長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU グラウンドを一周し、タオルで涙をぬぐう長嶋茂雄 ©BUNGEISHUNJU 山部太。1995年には16勝7敗、防御率3.83。2度の完封勝利も記録した ©Koji Asakura 1993年、前年度の日本シリーズで激闘の末西武に敗れた借りを返し、日本一となったヤクルト ©Masato Daito 山部の前年度のドラフト1位・伊藤智仁は前半戦だけで故障離脱したものの、4完封を含む7勝、防御率0.91という驚異的な活躍で新人王を獲得 ©Kazuaki Nishiyama 「ID野球」を掲げて90年代ヤクルト「中興の祖」となった故・野村克也監督。野村イズムは今もスワローズに生きている ©Takao Yamada 1992年頃の野村克也監督 ©Koji Asakura ノムさんのお茶目な表情 ©Keiji Ishikawa 野村野球の申し子、古田敦也。90年代の黄金時代の中核だった。強肩強打で3割を8度も記録 ©Koji Asakura 宝刀シンカーを武器に絶対的クローザーを務めた高津臣吾。NPB通算286セーブ、セーブ王4度。監督としても2021、22年にリーグ連覇を果たす ©Koji Asakura 全盛期の高津-古田の黄金バッテリー ©Tadashi Shirasawa 古田敦也と高津臣吾の黄金バッテリー ©Naoya Sanuki 「ブンブン丸」から背番号1を継承して「ミスター・スワローズ」となった池山隆寛の若手時代 ©Naoya Sanuki 1995年に巨人にFA移籍するまで不動の4番だった広沢克己。池山との「イケトラコンビ」で野村ヤクルトを引っ張った ©Koji Asakura 飯田哲也。野村監督に俊足強肩を見出されて捕手→二塁手→中堅へコンバート。長く1番打者を務め「足なら誰にも負けない 韋駄天飯田」と歌われた ©Takahiro Kohara 1995年日本シリーズで、中嶋聡の守るホームに突入する真中満。のちにふたりとも監督となりリーグ優勝を果たすことになった ©Takahiro Kohara 1988年ドラフト1位の川崎憲次郎。故障で苦しんだのちにシュートを覚えて復活、98年には17勝を挙げて最多勝を獲得した ©Kazuaki Nishiyama 1989年ドラフト1位の西村龍次。入団から4年連続2桁勝利をマーク ©Kazuaki Nishiyama 1990年ドラフト1位の岡林洋一。史上屈指の名シリーズ、92年の対西武でエースとして第1、4、7戦に完投した激投は忘れ難い ©Naoya Sanuki 1991年ドラフト1位の石井一久。最初のヤクルト時代に5度の2桁勝利をマークし、2002年移籍したドジャースでも先発として活躍した ©Hideki Sugiyama 1992年ドラフト1位の伊藤智仁。「高速スライダー」を武器に圧倒的投球で93年の新人王を獲得したが、その後長く故障と戦うことに ©Koji Asakura 1985年ドラフト1位の伊東昭光。88年にクローザーとして18勝を挙げ、史上初の「オール救援、規定投球回数未達」での最多勝という珍しい記録を樹立 ©Hideki Sugiyama 1990、91年の開幕投手を務め「ギャオス」のニックネームで人気を博した内藤尚行 ©Koji Asakura 1982年ドラフト1位で「大ちゃんフィーバー」を巻き起こした荒木大輔。長く故障に苦しんだが92年途中の復活登板でチームを勢いづけ優勝に導いた ©Kazuaki Nishiyama 土橋勝征。堅実な守備とバットを短く持っての粘り強い打撃で、90年代〜00年代半ばまでヤクルト一筋に支えた功労者。村上春樹の“推し”としても知られる ©Koji Asakura 2015年、監督に就任するといきなり2年連続最下位だったスワローズを優勝に導いた真中満氏の“合理的マネジメント”とは? ©Hideki Sugiyama 2014年に29本塁打をマークしてブレークした山田哲人は、2015年トリプルスリーを記録することに ©Nanae Suzuki 2015年41セーブでセーブ王を獲得したバーネット ©Hideki Sugiyama 2015年、雄平(右端)のサヨナラ打で優勝決定。前代未聞、神宮球場の外野でビールかけが行われた ©Hideki Sugiyama 真中監督「安堵」の胴上げ ©Hideki Sugiyama 1997年日本シリーズ第2戦。このシリーズ全試合に1番センターで出場した真中満が野村克也監督から受けた影響は大きいという ©Hideki Sugiyama 1997年のヤクルトには自由さもあった。真中と一緒に勝利を喜ぶデュウェイン・ホージーは底抜けの明るさで人気者だった ©Kazuaki Nishiyama 野村監督はマスコミを使って選手にメッセージを伝えるのが上手かった ©Koji Asakura 1995年、オリックスとの日本シリーズ第1戦に勝利したヤクルトナイン ©Hideki Sugiyama 1997年、西武との日本シリーズでの真中の守備 ©Koji Asakura 1997年、西武との日本シリーズに勝利して日本一の胴上げ。野村克也監督にとっては最後の優勝だった ©Koji Asakura 1997年、西武との日本シリーズに勝利。古田敦也、高津臣吾、石井一久らの姿が見える ©Koji Asakura

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