日本での野茂の投球を、ライバルの強打者たちはどう見ていたのか……今だからこそ「攻略法」を聞いた / photograph by Masato Daito 野茂は30年後の現代では考えられない球数を投げまくっていた ©Naoya Sanuki 首位打者、盗塁王を獲得するキャリアハイの活躍を見せた1992年の佐々木 ©Koji Asakura 現在は神戸で野球教室を開いている佐々木 ©Masanori Kise 1988年、日米野球で来日したハーシュハイザー。この年、シーズン23勝を挙げる圧倒的な投球を見せていた ©Naoya Sanuki ひとりの革命者を生みだした「1994年の近鉄バファローズ」。近鉄も、藤井寺球場もなき今でも、その息づかいが残る場所がある ©Kazuaki Nishiyama オールスターで西武のデストラーデと談笑するブライアント ©Takao Yamada 電車内から見える藤井寺球場跡地には、四天王寺学園の校舎が ©Masanori Kise 球場跡地のモニュメント「白球の夢」 ©Masanori Kise アイセルシュラホール ©Masanori Kise 最後まで手動だった藤井寺球場スコアボード用のネームプレート ©Masanori Kise ホームベースに記された鈴木啓示のサイン ©Masanori Kise 阿波野(左)は野茂の近鉄での日々を見続けてきた ©Takahiro Kohara 石井も、野茂も、近鉄に残る、そんな未来もあったのかもしれない ©Koji Asakura 1994年の近鉄バファローズが生んだパイオニア、野茂英雄 ©Takahiro Kohara 野茂と言えば豪快なトルネードからの上手投げ、のはずだが……当時最強打者のひとり、佐々木誠が語った特異な投球フォームの秘密とは? ©Takahiro Kohara 1994年には西武に移籍した佐々木 ©Kazuaki Nishiyama 言われてみれば、野茂の左肩は一塁側に大きく倒れているため、実は右腕の角度は「サイドスロー」に近くなっている! ©Koji Asakura やはりと言うべきか、対野茂で最も高打率をマークしたのは清原 ©Kazuaki Nishiyama 1995年に1試合19奪三振を記録した野田。2022年に佐々木朗希が完全試合達成とともに並んだが、依然として日本記録だ ©Takahiro Kohara この捻った瞬間の野茂の右手の力の張り具合で球種は見破れていたというが…… ©Takahiro Kohara 当時の最強打者のひとりである佐々木が球種を分かってもなお、野茂のフォークを打ちあぐねた ©Kazuaki Nishiyama 野茂から4本のHRを放ったオリックスの藤井康雄が体感した、「野茂がメジャーで通用した理由」とは ©Takahiro Kohara キャリアハイの37HRを放った1990年の藤井 ©Takahiro Kohara 現在の藤井康雄 ©Hideki Sugiyama 野茂から通算4本塁打を放った藤井の攻略法とは ©Takao Yamada 藤井も「ビッグ・ユニット」ランディ・ジョンソンには圧倒されたという。ちなみにジョンソンが背負っていたマリナーズの背番号51をのちにイチローが引き継ぐことになる ©Koji Asakura センセーションを起こした1994年のイチロー。だが野茂とはどこかすれ違いの感がある ©Kazuaki Nishiyama 長谷川滋利、イチロー、佐々木誠。野茂の挑戦を見た彼らの心には「やれないことはない」という思いが生まれた ©Takahiro Kohara(L)/Koji Asakura(C)/Kazuaki Nishiyama(R) 誰もが次第に、イチローなら当たり前、という見方になっていった ©Hideki Sugiyama オリックス時代の長谷川。日本では主に先発として通算57勝を挙げた ©Kazuaki Nishiyama 藤井は現役時代に長谷川のアメリカ行きのための努力を見ていた ©Hideki Sugiyama エンゼルス時代の長谷川。日本時代から意識的に英語を学んでコミュニケーションを訓練していたという ©Kazuaki Nishiyama 実は佐々木はメジャーを意識して様々な試行錯誤をしていた ©Naoya Sanuki グラウンドの硬さに対応するスパイク、バットの材質など佐々木は密かにメジャー仕様を試していたという ©Kazuaki Nishiyama

言われてみれば、野茂の左肩は一塁側に大きく倒れているため、実は右腕の角度は「サイドスロー」に近くなっている! ©Koji Asakura

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日本での野茂の投球を、ライバルの強打者たちはどう見ていたのか……今だからこそ「攻略法」を聞いた / photograph by Masato Daito 野茂は30年後の現代では考えられない球数を投げまくっていた ©Naoya Sanuki 首位打者、盗塁王を獲得するキャリアハイの活躍を見せた1992年の佐々木 ©Koji Asakura 現在は神戸で野球教室を開いている佐々木 ©Masanori Kise 1988年、日米野球で来日したハーシュハイザー。この年、シーズン23勝を挙げる圧倒的な投球を見せていた ©Naoya Sanuki ひとりの革命者を生みだした「1994年の近鉄バファローズ」。近鉄も、藤井寺球場もなき今でも、その息づかいが残る場所がある ©Kazuaki Nishiyama オールスターで西武のデストラーデと談笑するブライアント ©Takao Yamada 電車内から見える藤井寺球場跡地には、四天王寺学園の校舎が ©Masanori Kise 球場跡地のモニュメント「白球の夢」 ©Masanori Kise アイセルシュラホール ©Masanori Kise 最後まで手動だった藤井寺球場スコアボード用のネームプレート ©Masanori Kise ホームベースに記された鈴木啓示のサイン ©Masanori Kise 阿波野(左)は野茂の近鉄での日々を見続けてきた ©Takahiro Kohara 石井も、野茂も、近鉄に残る、そんな未来もあったのかもしれない ©Koji Asakura 1994年の近鉄バファローズが生んだパイオニア、野茂英雄 ©Takahiro Kohara 野茂と言えば豪快なトルネードからの上手投げ、のはずだが……当時最強打者のひとり、佐々木誠が語った特異な投球フォームの秘密とは? ©Takahiro Kohara 1994年には西武に移籍した佐々木 ©Kazuaki Nishiyama 言われてみれば、野茂の左肩は一塁側に大きく倒れているため、実は右腕の角度は「サイドスロー」に近くなっている! ©Koji Asakura やはりと言うべきか、対野茂で最も高打率をマークしたのは清原 ©Kazuaki Nishiyama 1995年に1試合19奪三振を記録した野田。2022年に佐々木朗希が完全試合達成とともに並んだが、依然として日本記録だ ©Takahiro Kohara この捻った瞬間の野茂の右手の力の張り具合で球種は見破れていたというが…… ©Takahiro Kohara 当時の最強打者のひとりである佐々木が球種を分かってもなお、野茂のフォークを打ちあぐねた ©Kazuaki Nishiyama 野茂から4本のHRを放ったオリックスの藤井康雄が体感した、「野茂がメジャーで通用した理由」とは ©Takahiro Kohara キャリアハイの37HRを放った1990年の藤井 ©Takahiro Kohara 現在の藤井康雄 ©Hideki Sugiyama 野茂から通算4本塁打を放った藤井の攻略法とは ©Takao Yamada 藤井も「ビッグ・ユニット」ランディ・ジョンソンには圧倒されたという。ちなみにジョンソンが背負っていたマリナーズの背番号51をのちにイチローが引き継ぐことになる ©Koji Asakura センセーションを起こした1994年のイチロー。だが野茂とはどこかすれ違いの感がある ©Kazuaki Nishiyama 長谷川滋利、イチロー、佐々木誠。野茂の挑戦を見た彼らの心には「やれないことはない」という思いが生まれた ©Takahiro Kohara(L)/Koji Asakura(C)/Kazuaki Nishiyama(R) 誰もが次第に、イチローなら当たり前、という見方になっていった ©Hideki Sugiyama オリックス時代の長谷川。日本では主に先発として通算57勝を挙げた ©Kazuaki Nishiyama 藤井は現役時代に長谷川のアメリカ行きのための努力を見ていた ©Hideki Sugiyama エンゼルス時代の長谷川。日本時代から意識的に英語を学んでコミュニケーションを訓練していたという ©Kazuaki Nishiyama 実は佐々木はメジャーを意識して様々な試行錯誤をしていた ©Naoya Sanuki グラウンドの硬さに対応するスパイク、バットの材質など佐々木は密かにメジャー仕様を試していたという ©Kazuaki Nishiyama

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