他紙の記者に「やり過ぎやな」とたしなめられるような記事を出していた筆者にも、鈴木啓示監督は悠然としていたが…… / photograph by KYODO 2019年の鈴木啓示。最後の近鉄OB会で会長として挨拶した ©JIJI PRESS 1992年、鈴木の監督就任発表。前列右が上山善紀オーナー。前列中央が鈴木啓示監督、左が前田泰男球団社長 ©KYODO 鈴木監督が記者に抗議や取材拒否をしたことは一度もなかった ©KYODO 鈴木と野茂の確執を精査することが、「革命」の背景を明らかにすることになるはずだ ©Takahiro Kohara 88年からクローザーを務めた吉井理人。94年には先発として7勝を挙げたが…… ©Takahiro Kohara 1985年、結果的に現役最終年になるシーズン前の鈴木啓示 ©BUNGEISHUNJU 光山英和も、鈴木啓示個人はむしろ「いい人」だと思っていたという ©Takahiro Kohara 近鉄時代の吉井 ©Takahiro Kohara 吉井は95年ヤクルトに移籍。その年のリーグ優勝、日本一に貢献することに ©Hideki Sugiyama 1993年、プロ初完封をマークした吉井(右)を称える鈴木啓示監督。だがワンマン体制のもと、選手と監督の心の距離は離れていった ©KYODO 89年の優勝決定マウンドには阿波野秀幸が送られた ©Kazuaki Nishiyama 吉井は胴上げに参加せずに引き揚げてしまったという ©Naoya Sanuki 89年の日本シリーズ、吉井は5試合に登板したがどこか精彩を欠いた ©Takahiro Kohara 監督を務める今も、吉井は選手が感情をあらわにすることには肯定的だという ©Hideki Sugiyama 佐々木はボールを監督に渡さずに、三塁側に向かって投げてしまった ©JIJI PRESS 近鉄で一時代を築いた、左から金村、阿波野、吉井、佐々木修。この全員が94年限りで移籍、引退などで近鉄を去った ©Makoto Kemmisaki 阿波野は当時の近鉄における鈴木監督の立ち位置を的確に指摘した ©Hirofumi Kamaya 鈴木啓示監督は「野茂は練習をしない」と信じ込んでいたが……選手は知っていた“真相”を光山英和が明かしてくれた ©Makoto Kemmisaki 鈴木監督は「野茂は投げない、走らない」と思っていたが… ©Takahiro Kohara この1994年の開幕戦での秘話を教えてくれた光山(手前)は、野茂と鈴木のさらなる確執の理由を語った ©Koji Asakura 野茂の調整法は鈴木の経験とまったく異なっていた ©Makoto Kemmisaki 吉井(左)と野茂。こうしたリラックスした姿も鈴木の気に入らなかった ©Takahiro Kohara 野茂が人一倍トレーニングを積んでいることを選手たちは知っていたが… ©Takahiro Kohara 努力の過程を見せなかった野茂の真意は鈴木には伝わっていなかった ©Koji Asakura 大功労者の阿波野に対しても首脳陣からは十分なコミュニケーションがなかった ©Takahiro Kohara 吉井も指導者になってから、近鉄での経験が教訓となったと話した ©Naoya Sanuki 1994年限りで野茂、阿波野、吉井、金村らが近鉄を去り、チームは最下位に沈んで鈴木監督も休養した。そして石井浩郎も球団の冷たい仕打ちを体感することに ©Kazuaki Nishiyama 本塁打王3度のブライアントも95年限りで去った ©Koji Asakura 野茂ら投手陣が絶大な信頼を置いていた立花龍司トレーニングコーチ(後方) ©Koji Asakura 長年貢献してきた石井にも冷たい仕打ちが ©Koji Asakura 石井は94年に111打点で打点王に輝く。結果的にこの年がキャリアハイにはなったが ©Takao Yamada 石井は巨人での3年間も負傷に苦しんだが、要所で印象的な活躍を見せた ©Koji Asakura 石井の人生では、既に野球選手よりも国会議員としての年月のほうが長くなっている ©Yuku Suenaga 野茂はドジャースでセンセーションを巻き起こし、かつての同僚たちは様々な思いを抱く。だがこの事件は単に美談で収まるものではなかった ©Koji Asakura ©Naoya Sanuki 野茂はセンセーションを巻き起こした ©Koji Asakura 1995年のオールスターに先発した野茂 ©Kazuaki Nishiyama 病気が重くなる以前、2013年頃の佐野 ©Shigeki Yamamoto 1994年開幕戦の野茂 ©Koji Asakura 鈴木啓示監督ら首脳陣と野茂たちは調整法から野球観まで対立した。そして1994年の主力選手たちは次々と流出していく ©Koji Asakura 1994年、近鉄は目の前で西武の胴上げを許すことに ©Bungeishunju 阿波野秀幸 ©Takahiro Kohara 13年間にわたり近鉄でプレーした「顔」だった金村義明も、1994年オフに去ることに ©Koji Asakura 吉井理人はヤクルトに移籍した ©Hideki Sugiyama 石井浩郎は巨人へ ©Koji Asakura 現在の阿波野秀幸 ©Hirofumi Kamaya Number714号の表紙 1994年開幕戦の野茂。手前が捕手・光山 ©Koji Asakura 阿波野秀幸 ©Hirofumi Kamaya 佐野重樹 ©Koji Asakura 野茂はいわば「野球亡命」することになった ©Masato Daito 吉井(中)自身は野茂(右)を気にかける余裕がなかったというが……。左は池上誠一 ©Takahiro Kohara 野茂が苦渋の決断で日本球界での退路を断つさまを見ていた佐野、石井、吉井、光山らは「大丈夫なのか」と固唾を飲む思いだった ©Takahiro Kohara 石井が野茂から聞いていたこととは ©Koji Asakura 吉井理人は千葉ロッテの監督を務めている ©Nanae Suzuki 当時はボストン・レッドソックスに所属していた稀代の名投手、クレメンス ©Kazuaki Nishiyama 江夏豊はNumber主催の「たったひとりの引退式」でメジャー挑戦を表明した ©Bungeishunju 吉井(右)はニューヨーク・メッツで野茂(左)と再会することになった ©Kazuaki Nishiyama 今では考えられない「191球」。そして野茂の調子は下降し…22年後の藤浪晋太郎も似た軌跡を描いていったように思えるが ©Koji Asakura ©Naoya Sanuki ©Takahiro Kohara 阿波野秀幸 ©Naoya Sanuki 「トレンディエース」の一人として人気だった阿波野秀幸 ©Takahiro Kohara 1989年の優勝決定の胴上げ投手となった阿波野 ©Kazuaki Nishiyama 西崎幸広、渡辺久信、星野伸之 ©Takahiro Kohara(L)/Naoya Sanuki(C)/Takao Yamada(R) 現在の阿波野 ©Hirofumi Kamaya ©Takahiro Kohara 野茂のルーキーイヤーのキャンプでの阿波野(14番)と野茂(11番) ©Takahiro Kohara 野茂英雄 ©Takahiro Kohara 仰木監督時代の近鉄は豪快なエピソードに事欠かない ©Takao Yamada 現在の石井浩郎 ©Yuki Suenaga ©Takahiro Kohara ©Takahiro Kohara 取材に対応する野茂 ©Takahiro Kohara 阿波野が見た事件とは ©Takahiro Kohara 現役時代の光山英和 ©Naoya Sanuki 石井浩郎 ©Koji Asakura 92、93年とセーブ王を獲得していたクローザー・赤堀元之。だがまさかの野茂英雄交代から近鉄の歯車は狂っていった ©Kazuaki Nishiyama 石井浩郎 ©Yuki Suenaga 92、93年とセーブ王を獲得していた赤堀元之。94年も最終的に24セーブでセーブ王となるが ©Koji Asakura 伊東勤。西武一筋で2379試合に出場、引退後即西武の監督に就任して日本一にもなっている ©Takao Yamada 西武・鈴木健。94年には規定打席不足ながら.350、12本塁打を記録した ©Takao Yamada 西武球場での開幕連敗から近鉄の歯車は狂っていった ©BUNGEISHUNJU 結果的に野茂英雄のラストイヤーとなった「1994年の近鉄バファローズ」に何が起きていたのか…メジャー挑戦30周年に番記者が改めて迫る ©Koji Asakura 1995年、アメリカにセンセーションを巻き起こした野茂 ©Naoya Sanuki ©Naoya Sanuki 近鉄の大エースだった阿波野秀幸 ©Takahiro Kohara 現在の阿波野氏 ©Hirofumi Kamaya 1994年開幕戦の野茂 ©Koji Asakura 快投を繰り広げた開幕戦の野茂 ©Koji Asakura 西武・郭泰源も負けじとスコアボードに0を並べていた ©Koji Asakura 石井浩郎。最終的にこの94年に.316、33本塁打というキャリアハイの成績を残した ©BUNGEISHUNJU 1994年開幕戦、ノーヒットノーランまであと3人の快投を続ける野茂英雄。しかし先制弾の4番・石井浩郎に交代が告げられて… ©Koji Asakura 1994年の中村紀洋。ベテラン・金村義明に代わって頭角を現し、この年101試合に出場してレギュラーへの足がかりをつかんだ ©BUNGEISHUNJU 参議院会館で当時を振り返る、現在の石井浩郎 ©Yuki Suenaga ダイエー時代の佐々木誠 ©Koji Asakura 球史に残る大型トレードで西武に移籍した1994年の佐々木誠。37盗塁で盗塁王を獲得し、20本塁打も記録した ©Kazuaki Nishiyama ノーヒットノーラン目前で清原和博の「捕れた当たり」がヒットになり、一転ピンチに。それでも野茂英雄への信頼は揺るがないはずだったが… ©Koji Asakura 清原和博。1994年も26発を放ち、黄金時代の西武の4番として君臨していた ©Naoya Sanuki 清原は二塁に ©Koji Asakura 内野陣がマウンドに集まった。左からショート吉田剛、野茂、セカンド大石大二郎、キャッチャー光山 ©Koji Asakura 長打力が売りの鈴木貴久(背番号2)だったが実は守備を含めた運動能力で一目置かれていた ©Kazuaki Nishiyama 当時を振り返る石井浩郎。現在は参議院議員を務める ©Yuki Suenaga 守備の名手だったセカンド・大石大二郎 ©Koji Asakura 日本でのラストシーズンとなった1994年、西武との開幕戦に登板した近鉄・野茂英雄。この日、8回までノーヒットの投球を見せていたが… ©Koji Asakura ピンチとなりマウンドに集まる近鉄の選手たち。野茂が投げ続けると見られていたが… ©Koji Asakura

1993年、プロ初完封をマークした吉井(右)を称える鈴木啓示監督。だがワンマン体制のもと、選手と監督の心の距離は離れていった ©KYODO

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他紙の記者に「やり過ぎやな」とたしなめられるような記事を出していた筆者にも、鈴木啓示監督は悠然としていたが…… / photograph by KYODO 2019年の鈴木啓示。最後の近鉄OB会で会長として挨拶した ©JIJI PRESS 1992年、鈴木の監督就任発表。前列右が上山善紀オーナー。前列中央が鈴木啓示監督、左が前田泰男球団社長 ©KYODO 鈴木監督が記者に抗議や取材拒否をしたことは一度もなかった ©KYODO 鈴木と野茂の確執を精査することが、「革命」の背景を明らかにすることになるはずだ ©Takahiro Kohara 88年からクローザーを務めた吉井理人。94年には先発として7勝を挙げたが…… ©Takahiro Kohara 1985年、結果的に現役最終年になるシーズン前の鈴木啓示 ©BUNGEISHUNJU 光山英和も、鈴木啓示個人はむしろ「いい人」だと思っていたという ©Takahiro Kohara 近鉄時代の吉井 ©Takahiro Kohara 吉井は95年ヤクルトに移籍。その年のリーグ優勝、日本一に貢献することに ©Hideki Sugiyama 1993年、プロ初完封をマークした吉井(右)を称える鈴木啓示監督。だがワンマン体制のもと、選手と監督の心の距離は離れていった ©KYODO 89年の優勝決定マウンドには阿波野秀幸が送られた ©Kazuaki Nishiyama 吉井は胴上げに参加せずに引き揚げてしまったという ©Naoya Sanuki 89年の日本シリーズ、吉井は5試合に登板したがどこか精彩を欠いた ©Takahiro Kohara 監督を務める今も、吉井は選手が感情をあらわにすることには肯定的だという ©Hideki Sugiyama 佐々木はボールを監督に渡さずに、三塁側に向かって投げてしまった ©JIJI PRESS 近鉄で一時代を築いた、左から金村、阿波野、吉井、佐々木修。この全員が94年限りで移籍、引退などで近鉄を去った ©Makoto Kemmisaki 阿波野は当時の近鉄における鈴木監督の立ち位置を的確に指摘した ©Hirofumi Kamaya 鈴木啓示監督は「野茂は練習をしない」と信じ込んでいたが……選手は知っていた“真相”を光山英和が明かしてくれた ©Makoto Kemmisaki 鈴木監督は「野茂は投げない、走らない」と思っていたが… ©Takahiro Kohara この1994年の開幕戦での秘話を教えてくれた光山(手前)は、野茂と鈴木のさらなる確執の理由を語った ©Koji Asakura 野茂の調整法は鈴木の経験とまったく異なっていた ©Makoto Kemmisaki 吉井(左)と野茂。こうしたリラックスした姿も鈴木の気に入らなかった ©Takahiro Kohara 野茂が人一倍トレーニングを積んでいることを選手たちは知っていたが… ©Takahiro Kohara 努力の過程を見せなかった野茂の真意は鈴木には伝わっていなかった ©Koji Asakura 大功労者の阿波野に対しても首脳陣からは十分なコミュニケーションがなかった ©Takahiro Kohara 吉井も指導者になってから、近鉄での経験が教訓となったと話した ©Naoya Sanuki 1994年限りで野茂、阿波野、吉井、金村らが近鉄を去り、チームは最下位に沈んで鈴木監督も休養した。そして石井浩郎も球団の冷たい仕打ちを体感することに ©Kazuaki Nishiyama 本塁打王3度のブライアントも95年限りで去った ©Koji Asakura 野茂ら投手陣が絶大な信頼を置いていた立花龍司トレーニングコーチ(後方) ©Koji Asakura 長年貢献してきた石井にも冷たい仕打ちが ©Koji Asakura 石井は94年に111打点で打点王に輝く。結果的にこの年がキャリアハイにはなったが ©Takao Yamada 石井は巨人での3年間も負傷に苦しんだが、要所で印象的な活躍を見せた ©Koji Asakura 石井の人生では、既に野球選手よりも国会議員としての年月のほうが長くなっている ©Yuku Suenaga 野茂はドジャースでセンセーションを巻き起こし、かつての同僚たちは様々な思いを抱く。だがこの事件は単に美談で収まるものではなかった ©Koji Asakura ©Naoya Sanuki 野茂はセンセーションを巻き起こした ©Koji Asakura 1995年のオールスターに先発した野茂 ©Kazuaki Nishiyama 病気が重くなる以前、2013年頃の佐野 ©Shigeki Yamamoto 1994年開幕戦の野茂 ©Koji Asakura 鈴木啓示監督ら首脳陣と野茂たちは調整法から野球観まで対立した。そして1994年の主力選手たちは次々と流出していく ©Koji Asakura 1994年、近鉄は目の前で西武の胴上げを許すことに ©Bungeishunju 阿波野秀幸 ©Takahiro Kohara 13年間にわたり近鉄でプレーした「顔」だった金村義明も、1994年オフに去ることに ©Koji Asakura 吉井理人はヤクルトに移籍した ©Hideki Sugiyama 石井浩郎は巨人へ ©Koji Asakura 現在の阿波野秀幸 ©Hirofumi Kamaya Number714号の表紙 1994年開幕戦の野茂。手前が捕手・光山 ©Koji Asakura 阿波野秀幸 ©Hirofumi Kamaya 佐野重樹 ©Koji Asakura 野茂はいわば「野球亡命」することになった ©Masato Daito 吉井(中)自身は野茂(右)を気にかける余裕がなかったというが……。左は池上誠一 ©Takahiro Kohara 野茂が苦渋の決断で日本球界での退路を断つさまを見ていた佐野、石井、吉井、光山らは「大丈夫なのか」と固唾を飲む思いだった ©Takahiro Kohara 石井が野茂から聞いていたこととは ©Koji Asakura 吉井理人は千葉ロッテの監督を務めている ©Nanae Suzuki 当時はボストン・レッドソックスに所属していた稀代の名投手、クレメンス ©Kazuaki Nishiyama 江夏豊はNumber主催の「たったひとりの引退式」でメジャー挑戦を表明した ©Bungeishunju 吉井(右)はニューヨーク・メッツで野茂(左)と再会することになった ©Kazuaki Nishiyama 今では考えられない「191球」。そして野茂の調子は下降し…22年後の藤浪晋太郎も似た軌跡を描いていったように思えるが ©Koji Asakura ©Naoya Sanuki ©Takahiro Kohara 阿波野秀幸 ©Naoya Sanuki 「トレンディエース」の一人として人気だった阿波野秀幸 ©Takahiro Kohara 1989年の優勝決定の胴上げ投手となった阿波野 ©Kazuaki Nishiyama 西崎幸広、渡辺久信、星野伸之 ©Takahiro Kohara(L)/Naoya Sanuki(C)/Takao Yamada(R) 現在の阿波野 ©Hirofumi Kamaya ©Takahiro Kohara 野茂のルーキーイヤーのキャンプでの阿波野(14番)と野茂(11番) ©Takahiro Kohara 野茂英雄 ©Takahiro Kohara 仰木監督時代の近鉄は豪快なエピソードに事欠かない ©Takao Yamada 現在の石井浩郎 ©Yuki Suenaga ©Takahiro Kohara ©Takahiro Kohara 取材に対応する野茂 ©Takahiro Kohara 阿波野が見た事件とは ©Takahiro Kohara 現役時代の光山英和 ©Naoya Sanuki 石井浩郎 ©Koji Asakura 92、93年とセーブ王を獲得していたクローザー・赤堀元之。だがまさかの野茂英雄交代から近鉄の歯車は狂っていった ©Kazuaki Nishiyama 石井浩郎 ©Yuki Suenaga 92、93年とセーブ王を獲得していた赤堀元之。94年も最終的に24セーブでセーブ王となるが ©Koji Asakura 伊東勤。西武一筋で2379試合に出場、引退後即西武の監督に就任して日本一にもなっている ©Takao Yamada 西武・鈴木健。94年には規定打席不足ながら.350、12本塁打を記録した ©Takao Yamada 西武球場での開幕連敗から近鉄の歯車は狂っていった ©BUNGEISHUNJU 結果的に野茂英雄のラストイヤーとなった「1994年の近鉄バファローズ」に何が起きていたのか…メジャー挑戦30周年に番記者が改めて迫る ©Koji Asakura 1995年、アメリカにセンセーションを巻き起こした野茂 ©Naoya Sanuki ©Naoya Sanuki 近鉄の大エースだった阿波野秀幸 ©Takahiro Kohara 現在の阿波野氏 ©Hirofumi Kamaya 1994年開幕戦の野茂 ©Koji Asakura 快投を繰り広げた開幕戦の野茂 ©Koji Asakura 西武・郭泰源も負けじとスコアボードに0を並べていた ©Koji Asakura 石井浩郎。最終的にこの94年に.316、33本塁打というキャリアハイの成績を残した ©BUNGEISHUNJU 1994年開幕戦、ノーヒットノーランまであと3人の快投を続ける野茂英雄。しかし先制弾の4番・石井浩郎に交代が告げられて… ©Koji Asakura 1994年の中村紀洋。ベテラン・金村義明に代わって頭角を現し、この年101試合に出場してレギュラーへの足がかりをつかんだ ©BUNGEISHUNJU 参議院会館で当時を振り返る、現在の石井浩郎 ©Yuki Suenaga ダイエー時代の佐々木誠 ©Koji Asakura 球史に残る大型トレードで西武に移籍した1994年の佐々木誠。37盗塁で盗塁王を獲得し、20本塁打も記録した ©Kazuaki Nishiyama ノーヒットノーラン目前で清原和博の「捕れた当たり」がヒットになり、一転ピンチに。それでも野茂英雄への信頼は揺るがないはずだったが… ©Koji Asakura 清原和博。1994年も26発を放ち、黄金時代の西武の4番として君臨していた ©Naoya Sanuki 清原は二塁に ©Koji Asakura 内野陣がマウンドに集まった。左からショート吉田剛、野茂、セカンド大石大二郎、キャッチャー光山 ©Koji Asakura 長打力が売りの鈴木貴久(背番号2)だったが実は守備を含めた運動能力で一目置かれていた ©Kazuaki Nishiyama 当時を振り返る石井浩郎。現在は参議院議員を務める ©Yuki Suenaga 守備の名手だったセカンド・大石大二郎 ©Koji Asakura 日本でのラストシーズンとなった1994年、西武との開幕戦に登板した近鉄・野茂英雄。この日、8回までノーヒットの投球を見せていたが… ©Koji Asakura ピンチとなりマウンドに集まる近鉄の選手たち。野茂が投げ続けると見られていたが… ©Koji Asakura

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