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マリア・シャラポワ 奇跡を生んだバランス。 

text by

吉松忠弘

吉松忠弘Tadahiro Yoshimatsu

PROFILE

posted2005/02/03 00:00

 吹き出す汗を拭かずに、何気なくスイッチに手を伸ばした。求めたわけではないが、テレビには偶然にもアテネ五輪が映っていた。

 テニスはもちろんのこと、競泳、体操など、米国期待の競技は、連日、放送されていた。

 自分がそこにいないのは、マリア・シャラポワにとって、少し違和感があった。ウィンブルドンに優勝し、世界ランキングは8位である。五輪への出場は望んでいたことでもあった。しかし、運命のいたずらか、ちょっとしたタイミングのズレが、五輪への門を閉ざした。ウィンブルドン優勝前に、五輪へのエントリーは締め切られていた。まだ期待の若手でしかなかった自分が、層の厚いロシア女子で出場枠の上位4人に食い込むのは、その時点では無理だった。

 「まだ若いのよ。4年なんて、あっという間。それに、次の北京でも21歳なんだし。十分にチャンスがあると思うわ」

 テレビでは、鮮やかなブルーのコート上で、仲間たちが賞金ではなく名誉とメダルを懸けて戦っていた。シャラポワは、何気なくそれを眺めていた。

 五輪の期間中、ニューヨークのセントラルパークで、350人の子どもたちを相手に、無料のクリニックを開いた。ウィンブルドンの表彰式で見せた携帯電話のパフォーマンスに目をとめた大手通信会社と、3年間で500万ドル(約5億2500万円)の契約も結んだ。

 ウィンブルドン優勝で、周りの環境は一変する。シャラポワは一夜でスーパーヒロインになった。しかし、五輪という国や地域で限られた戦いの舞台に、自分はいなかった。テニスという競技は、国境という枠にとらわれないスポーツだからこそおもしろい。分かってはいるが、ロシアの代表として、アテネの舞台にいない自分が、どうしても不思議だった。

 五輪は別として、女子国別対抗戦フェド杯の代表にも選ばれなかった。米国に移住して以来、確かにほとんど母国とコンタクトを取っていない。そのツケとはいえ、納得がいかなかった。そもそもあまりにも急激な成長に、ロシア・テニス協会の判断が、ついて行かなかったのだ。

 しかし、シャラポワの代表入りに嫌悪感を隠そうとしない選手もいる。ウィンブルドン前の全仏で、ロシア女子として初の4大大会優勝を果たしたアナスタシア・ミスキナだ。

 「彼女は純粋なロシア人じゃないわ。というより米国人に近いと思う。もちろん、メンタル的な問題だけど。彼女が代表になりたければなればいいけど、父親だけは連れてきてほしくない」

 シャラポワの父ユーリは、現在、ツアーの大きな問題となっている。ロシア選手と対戦するたびに、ロッカールームで相手に「負けろ」と脅し、試合中に叫び続ける。以前、マリー・ピエルス、エレナ・ドキッチらの父親が、娘に対する異常な愛情で暴力に走り、大会で暴れ、ツアーから締め出された。再び、似た騒動が起きようとしている。

 アンナ・クルニコワの時は、このような問題は起きなかった。クルニコワは、その美ぼうと実力で、瞬く間にテニス界のアイドルとなった。現在のロシア女子が世界に羽ばたく先駆者である。幼少時にロシアから米国に移住し、フロリダの名門ボロテリー・アカデミーで指導を受けた。その道筋は、シャラポワが歩んだのとまったく同じで、米国へ導いたエージェントも同じだった。

 クルニコワの母アラも、相当なステージママだった。娘の出場を願う大会に対し、専用カーやスイートルームの用意など、あらゆる注文をつけた。それでも、シャラポワのような騒動は起きなかった。決定的な違いは、クルニコワがシングルスで4大大会に優勝できなかったことだ。それどころか、ツアー優勝もない。

 クルニコワが、女子テニス界で成功を収めたかどうかは意見が割れるところだろう。しかし、何かが欠けている方が、うまくバランスが取れるということもある。若く、美しく、そして強い。すべてが傑出した時、逆にそのバランスを取ることは難しくなる。

 華やかな女子テニス界の裏側は、危うい綱渡りの連続だ。周囲の干渉や、内なる欲求の微妙なバランスを取りながら、年間30週もの転戦を繰り返す。試合でも、すべてに全力投球することは難しい。手を抜くことはないが、捨てる勇気も持ち合わせなければ、緊張のバランスなど保てない。3度のウィンブルドン優勝を誇るジョン・マッケンローも言っていた。

 「完ぺきを求めすぎるな。すべてを欲しがるな。それに、テニスはそこそこ負けた方がいいんだよ。その方が、成功は長続きするってものさ」

 マッケンローには、短気という欠点があった。コート上で判定に怒り、汚い言葉で主審やレフェリーをののしり、失格を受けたこともあった。ただ、誰もがその短気を愛した。

 シャラポワはテレビのスイッチを切った。強くなりたいだけ、実力相応の扱いをしてもらいたいだけだ。簡潔で純粋な願いは、肥大したスポーツ・ビジネスの中で、あまりにも安直なのかもしれない。彼女にとって、父親の騒動さえも、自分を支える愛情としか思えなかった。心と頭の中で、必死でバランスを取った。経験したことのないプレッシャーの中、もがく自分の姿が見えた。

 シャラポワほどではないが、他の選手も似たような悩みを抱えている。そもそもロシア女子の躍進自体が、ツアーの上で微妙なバランスで成り立っているにすぎなかった。

 ゴルバチョフ書記長(当時)によるペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が、旧ソ連のスポーツに与えた影響は大きい。市場経済に移行し、海外資本がすさまじい勢いで流入した。鉄のカーテンは破れ、結果、ソ連はあっけなく崩壊する。

 サッカーやアイスホッケーなど、ソ連にとっての団体スポーツは、国家の力を誇示する広告塔でもあった。五輪は、その最大の舞台だった。しかし、自由化の導入で、国が崩壊するのと並行して、後ろ盾を失った団体スポーツの勢いは衰退する。逆に台頭してきたのが、個人スポーツのテニスだった。

 テニスは、'88年ソウル大会で正式競技に復帰するまで、64年間も五輪と別の道を歩んできた。ソ連にとって、結果が出るかどうかも分からず、五輪競技でもない個人スポーツに力を注ぐことは、無駄以外の何ものでもなかった。それが、ソ連の崩壊で一変する。

  '90年には、米国のプロモーターが企画し、初のプロスポーツイベントがモスクワで開かれた。男子テニスのツアー公式戦クレムリンカップだ。この大会で、テニスを知ったロシア国民は多い。そこに欧米のスポーツメーカーやエージェントが殺到し、新たな市場を開拓していった。

 ロシアには約1億5000万人の民がいる。ソ連時代海外ツアー転戦が制限されていただけで、昔から才能がある選手はいた。'73年ウィンブルドンで、男子のアレックス・メトレベリが準優勝、翌年に女子のオルガ・モロゾワが同じく準優勝に輝いている。その才能が、海外からの刺激で目を覚ましたのだ。テニスにとって、ロシアは遅れてやってきた最高の市場だった。

 エリツィン前大統領の功績も忘れてはならない。無類のテニス好き。側近には、ゴルフの代わりにテニスを薦め、政治家の間にブームを巻き起こした。ロシア選手が活躍する大会なら、どんなところでも顔を出した。ミスキナが全仏で優勝した時、ロッカールームの彼女に、いの一番で祝福の電話を入れた。クレムリンカップを導いたのも彼なら、現在のロシアテニスの躍進を支えるのも、彼のポケットマネーだと言われている。

(以下、Number620号へ)

マリア・シャラポワ

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