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田中達也&永井雄一郎 赤い月と赤い太陽。 

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小齋秀樹

小齋秀樹Hideki Kosai

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posted2007/11/29 00:15

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[ライバル・ストーリー]田中達也&永井雄一郎 赤い月と赤い太陽。

小齋秀樹=文

text by Hideki Kosai

 ホイッスルが鳴ったピッチ上には、歓喜と落胆が同居していた。雄叫びを上げ仲間を見つけては駆け出す者、膝に手をついてうなだれる者。昨2006年12月2日、浦和レッズがガンバ大阪を3-2と降し、初のリーグ優勝を手にした直後、動と静が入り混じるピッチの様子を、永井雄一郎はベンチ脇から眺めていた。いわゆる“体育座り”の姿勢のまましばらく背中を丸めていたが、やがてベンチの中へと姿を消し、表彰式がはじまるまでの時間をやり過ごした。

 「他人事と言ったら、言葉が悪すぎますけど」

 そう言ってから沈黙し、永井はあのときの自分の気持ちを的確に表す言葉を探す。

 「自分たちのことじゃないような感じでしたね。優勝のメダルも貰いましたけど、みんなが勝ち取ってくれたものを貰ったような感じだったし、『ここに居場所がないな』と思ってました」

 '06年はリーグ34戦中23試合に出場、しかし先発したのはわずかに7試合だった。その後の天皇杯では4戦のうち3試合に先発、3得点を記録。3つめのゴールは天皇杯優勝を決め、勇退が決まっていたギド・ブッフバルトの花道を飾るものとなった。

 ブッフバルト指揮下での3年間は、永井にとって異質な3年間だった。'04年の就任と同時に、永井はFWから右サイドへとコンバートされる。彼の突破力を最大限に生かそうという意図だった。戸惑いを覚えながらも、永井はそのポジションをこなし、チームはセカンドステージで優勝を果たす。だが、'05年夏のエメルソン放出、'06年のワシントン加入などメンバー編成の影響もあり、FWなのか右サイドなのか、判然としないままに後半のシーズンを送ることとなっていた。

 2007年、ホルガー・オジェック下でのシーズンがはじまると、永井には明確な役割が与えられた。

 「久々にFWやってる」

 うれしそうに、そう口にする。ブッフバルト指揮下後期に彼が抱えていた苦悩が透けて見えた気がした。

 「昔、自分がFWだった頃、『ああ、こんな感じだったなあ』とか、『こんなにキツかったかなあ』とか思いながら、やってます」

 3月3日、横浜FCとのリーグ開幕戦、永井は'05年以来の開幕スタメンを飾り、後半40分、決勝点となるゴールを決める。

 「はじまったばかりなんで、これで満足しちゃしょうがないけど、去年しんどいシーズンだったんで、こうやって試合に出られることがうれしいです。監督の期待に応えられるように、1試合1試合、自分にプレッシャーかけてやっていきたい」

 試合後、饒舌だったのは、開幕戦のフル出場と決勝ゴールだけが理由ではない。たとえ自分が得点をした試合でも、他の場面でミスがあれば、永井は苛立ちを覚えてしまうタイプだ。プロとして自身初のハットトリックを達成した'04年の東京ヴェルディとの試合ですら、「後でビデオを見たら、納得できないプレーがあって、がっかりしたし、イライラもしました」と語るほどだった。

 開幕戦後に饒舌だったのは、得点以外のプレーが合格点を与えられるものだったからだ。

 「止まってプレーするよりも、とにかくよく動いてスペースでボールを受けたり、僕が動いて空けたスペースを味方の誰かが使うってことを考えていました。それがキャンプのときから監督に言われていたことでしたから」

 たとえば後半22分、ドリブルする山田暢久の前方を、永井が左から右へと斜めに走っていく。その動きを警戒し相手DFが永井を追ってサイドへと広がる。山田は目の前に開けた道をドリブルで突進、エリア内からチップキックでゴール正面のワシントンへと送り、ワシントンが頭でゴールを狙う。完璧な崩しのきっかけは永井のフリーランニングだった。

 開幕戦後も2試合連続でゴールを決めるなど、永井は好調を維持していく。大原サッカー場での表情も、当然、明るい。昨季は失っていた居場所を永井は見つけていた。

 練習場のピッチの中に、いまだ居場所を見い出せていなかったのが、田中達也だ。ピッチの脇、サイドラインから外側のスペース。そこに置かれたいくつものコーンの間を、前後左右にステップを刻んで抜けていく。リハビリメニューの合間には、ピッチの中で繰り広げられている“赤対黄色”のゲームを見つめる。赤いトレーニングウェアを着ていた達也は、紛らわしくないようにと青いビブスを上から羽織っていた。

 昨年のリーグ優勝から5日後の12月7日、達也は埼玉県内の病院へと向かった。翌日、脱臼骨折を負った右足首に1年と2カ月近く埋め込まれたままだった金属プレートとボルトを除去する手術を受ける。天皇杯が残っている時期に手術を行なったのは、開幕に合わせるためだった。

 「2月頃は『早く試合をやりたい』、『開幕に間に合わせたい』って気持ちで、でも、なかなか治らなくて、イライラしたりしてました」

 しかし、開幕直前に鹿児島県指宿市で行なわれた合宿への帯同は許されず、それは開幕戦には間に合わないということと同義だった。

 「ケガをしてても、合宿には行きたかったんですけどね。チームと一緒にいたかった」

 トレーナーとリハビリをこなす選手たちだけが残されたクラブハウスでは、達也の決して大きくはない呟きもはっきりと耳に響いた。

 達也が公式戦に復帰するのは6月、中国山東省で開催されたA3チャンピオンズカップだった。2試合にフル出場して帰国すると、6月17日、リーグ第15 節のFC東京戦でも先発し、前半3分に先制点を挙げる。ペナルティエリア左でワシントンからのボールを受けた達也は躊躇いなく左足を振った。GKの手に当たりボールは急激に失速したが、それでもゆっくりとゴールへ向かって進み、右隅へと吸い込まれていった。その様子は、本人の願うようには進まなかった今季の歩みを象徴しているように見えた。

 「今まで試合に出られずにいたぶんを取り返すって気持ちでいました。ワシさんからいいボールをもらったんで、思いっきり打つだけでした。久々のゴールでうれしかったです」

 この試合、達也は後半28分に小野伸二と交代して退く。44分にはワシントンもベンチへ。代わりに送り込まれたのは、永井だった。

 「光と影ってこと?」

 福田正博は、「そう見えるのは、外見のちがいも大きいとは思うんだけど」とふたりへの気遣いを見せながらも、否定はしなかった。

 「永井の方が表現下手だよね。損してる。達也の方がストレート」

 福田、永井、達也の3人が共にプレーをしたのは、達也が加入した'01年から福田が引退する'02年までの2シーズンだ。福田の引退後、永井がこう言っていたことがある。

 「フクさんにいろいろ話を聞いてる達也が羨ましかったですよ」、と。

 達也が加入したとき、福田と永井はすでにライバルと言っていい関係だった。一方、達也と福田の間にはもっと実力的な距離があった。だからこそ、達也は福田との関係を逆に近づけることができた。

 「アドバイスがほしかったんなら、自分から心を開かないと」

 そう言った後で、福田はつづける。

 「でも、永井の方が近寄りがたい感じはするよね。アドバイスもしにくい感じ。達也の方が冗談言われるタイプ。背も小さいし、言っても大丈夫かなって気がする(笑)。それに、永井の方が繊細なんだろうね。完璧主義者」

 達也が加入した'01年、福田から見れば、永井も達也もドリブラーだった。

(以下、Number692号へ)

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