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ニコラ・アネルカ「漂流の果てに」 

text by

田村修一

田村修一Shuichi Tamura

PROFILE

photograph byTsutomu Takasu

posted2008/06/12 18:04

ニコラ・アネルカ「漂流の果てに」<Number Web> photograph by Tsutomu Takasu

 2008年3月26日、スタッド・ド・フランスにつめかけた観衆は、スタンディング・オベーションで途中交代するひとりの選手を祝福した。彼が得たPKをフランク・リベリーが決め、最少得点差ながらフランスはこの試合でイングランドに勝利した。

 「パリの観衆からブーイングを浴びたのは、そう遠い昔ではなかった」と、“彼”ニコラ・アネルカは振り返る。

 「同じ人々から、今度は祝福される。凄く嬉しいけど、この世界の変化の激しさをよく表わしていて、なかなか感慨深いよ」

 アネルカは希代のトラブルメイカーだった。練習には平気で遅れ、ものおじしないもの言いで、行く先々で監督やプレスと衝突を繰り返す。若手を育てることでは定評のあるアーセン・ベンゲルですら、アネルカだけは御すことはできなかった、ように見えた。

 レアル・マドリー移籍の後は、パリ、リバプール、マンチェスター、イスタンブールと漂流するにいたって、トップレベルでの彼の選手生命は、もはや尽きたとさえ思われた。

 ところがアネルカはいつのまにか成熟し、ひとりの完成された選手としてわれわれの前に現れた。点を取るだけではない。周囲を自在に動かし、ちょっと引いた位置から攻撃を操る姿は、人間的な成長がピッチの上に体現されているようでもあった。ユーロで覇権奪回を狙うフランスにとっても、攻撃のリーダーとしての期待がにわかに高まっている。

 いったいどんな紆余曲折を経て、アネルカは現在の姿になったのか。そして彼は、最後のチャンスになるかもしれないユーロ2008に何を求めるのか。アネルカの過去と現在、未来に迫った。

 「ニコラ・アネルカは、私にとって最大の発見であり、また最大の後悔でもある」と、アーセン・ベンゲルはかつて私に語った。

 「あれほどの才能を持った若者を、私は見たことがなかった。ロンドンに着いたときから、彼はスターの雰囲気を醸し出していた」

 ベンゲルが絶賛するほどに、ティエリー・アンリはじめフランス中の俊英が集まっていたINFクレールフォンテーン(国立サッカー学院)でも、アネルカは傑出していた。その校長を長く務め、現在は福島県のJFAアカデミー福島で日本の若い世代を指導するクロード・デュソーもこう語っている。

 「私が見たなかで、最も才能に恵まれていたのがフィリップ・クリスタンバルとアネルカだ。アンリはプレミアリーグでシーズン30ゴールをあげたが、同じ条件ならアネルカは、少なくとも40点はとっているだろう」

 '97年2月、17歳11カ月の若さでパリ・サンジェルマンからアーセナルに移籍したアネルカは、1年目から頭角を現した。特にマンチェスター・ユナイテッド戦('97年11月9日)のゴールはチームに勢いを与え、不安定なスタートを切ったアーセナルはここから快進撃を開始し、2冠を達成したのだった。

 たとえミスをしても、ベンゲルは辛抱強くアネルカを使い続けた。ハイバリー・スタジアムのファンも、彼を暖かく見守った。当時からアーセナルは、若い才能が成長していくには、申し分のない環境であった。

 アンリやパトリック・ビエラがそうであったように、そしてセスク・ファブレガスやロビン・ファンペルシらが今そうであるように、もしもアネルカが、ベンゲルの庇護のもとずっとアーセナルに居続けることができたら、その後の彼の人生は、今日とはまったく異なっていただろう。

 陽気で多弁なアンリとは違い、アネルカは無口で内気だった。彼をインタビューしたあるイギリス人記者は印象をこう語っている。

 「魅力的な若者で、話も面白い。だが信じられないくらいに内気だ」

 だがひとたび口から出る言葉は、ストレートで刺激的。そのうえ何を書かれても反論しないとなれば、マスコミには格好の揶揄の対象、攻撃材料であった。

 「言葉が大げさに伝えられた。衝撃的だったね」と本人も振り返るように、意図とは裏腹にコメントは独り歩きした。

 「マルク・オーフェルマルスとデニス・ベルカンプ。彼らは自分たちだけでパスを回して、僕らにボールをよこさないよ」と、ジョークのつもりで語った言葉が、いつの間にか『オーフェルマルスとベルカンプのふたりが、僕からワールドカップ出場の夢を奪った』という新聞のタイトルになってしまう。

 また'98年ワールドカップ代表から漏れた記者会見の場での発言、「上等だね。これで車の免許を取りに行く時間ができたよ」も、センセーションを巻き起こした。

 「同じ状況になったら、たぶん同じことを言うと思う」と、当時を振り返って彼は語る。

 「実際、大会期間中に免許を取ったし、筆記試験の準備もできた。別に話題づくりのためではなく、そこしか時間がないからそうしたまでで、他意は何もないよ」

 元チームメイトで、今はクラブのスカウトを務めるジル・グリマンディはこう述べる。

 「彼ほど内と外でイメージの違う選手はいない。当時はまだチームにたくさんいたイングランド人選手たちを含め、誰もがニコ(アネルカの愛称)を認めていた。なにより才能はずば抜けていたからね」

 ワールドカップの翌年、フランスははじめてウェンブリーでイングランドを破る。このとき2得点のすべてをあげて、歴史的勝利の立役者となったのがアネルカだった。

 ところがそれが第2の不幸を呼び起こしてしまう。スペインの名門、レアル・マドリーがアネルカに目をつけたのだ。提示された移籍金は2億2000万フラン(41億円)。ベンゲルには断りきれない額であり、アネルカ本人にとっても、レアルというクラブは「ノンと返事をするにはあまりに魅力的」であった。

 移籍発表の会見は'99年8月5日、200人のジャーナリストを前にサンチャゴ・ベルナベウでおこなわれた。それが迷走のはじまりだとは、このときはまだ誰も気づかなかった。

 「クラブをあげて暖かく歓迎してくれた」アーセナルとは異なり、スター軍団のレアルは、20歳の若者の扱いもビジネスライクだった。アネルカは告白する。

 「ロッカールームで紹介されたあと、『ここに座って適当にやってくれ』といわれた。だから座っていると『そこは俺の場所だからどいてくれ』。それで別の場所に座ると、翌日は別の選手が『そこは俺だ』という。ずっとそんな感じで、とうとう最後まで自分の居場所がなかった。とんでもないところだと思ったし、あの受け入れ方は絶対に忘れないよ」

 チャンピオンズリーグ優勝にこそ貢献したものの、それ以外はさしたる活躍もなく、翌シーズンはレアルからパリ・サンジェルマンに移籍。2億1500万フランの移籍金は、レアルがアーセナルに支払ったのとほぼ同額で、PSGはアーセナルに売った40倍の額で、3年後に同じ選手を買い戻したのだった。

 そしてこの頃から、高額移籍金の恩恵にあずかろうとする人々が群がり、彼の周囲はにわかにきな臭くなった。それとともにアネルカも、サッカーへの熱意を失っていった。

 「もともと彼には意欲が少し欠けていた。『うまくなりたい、トップに行きたい』という気持ちが、アンリのように強くなかった」とデュソーも述べるように、取り巻きの影響を受けると、転落もあっという間だった。マドリッドとパリでの「まったく意味のない2年半」(アネルカ)が、こうして過ぎていった。

 その後イングランドに戻った彼は、リバプールとマンチェスター・シティでほぼ3年を過ごす。プレミアの水は彼にあった。ダイレクトでスピーディなスタイル。スペースを与えられたアネルカは、リバプールで見事に復活した。

 ところが監督のジェラール・ウリエは取り巻きたちを懸念し、半年のレンタル契約終了後、最後の瞬間に獲得の意志を翻した。急きょ移籍したマンチェスター・シティでも、ピッチ上での活躍とは裏腹に、私生活は乱れがちだった。そして'05年1月、シティは彼をイスタンブールのフェネルバフチェに放出した。誰の目にも明らかな都落ち。だがそれは、アネルカ自身が希望したことでもあった。

 「トルコに行ったら終わりだと、誰もが考えた。でも僕は一度すべてから離れて、友人やエージェント、取り巻きの連中を整理したかった。そして新たに出発したかった」

 イスラム教に改宗した彼は、新たな環境で新しい生活をはじめる。それとともにサッカーへの情熱も蘇った。これまで経験のなかった右ウイングや中盤でプレーすることで、プレーの幅も広がっていった。

 「計画はうまくいった。再びチャンピオンズリーグに出場することができたし、フランス代表にも復帰できたからね」

<次ページに続く>

► 【次ページ】  10年の流転の末に、たどり着いた新境地。

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