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清水エスパルス 長谷川健太が背負うもの。 

text by

熊崎敬

熊崎敬Takashi Kumazaki

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posted2006/12/07 22:54

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[躍進の軌跡]清水エスパルス 長谷川健太が背負うもの。

熊崎敬=文

text by Takashi Kumazaki

 降格の危機に怯えていた去年の秋が、遠い昔のことのように思えてくる。

 昨年、残り2試合で辛くもJ1残留を決めた清水エスパルスが、わずか1年で上位に躍り出るとはちょっと想像できなかった。30節で優勝の可能性は消えたが、若返ったエスパルスは4年も続いた低迷期にようやく終止符を打つことになった。

 就任2年目にして立て直しに成功した長谷川健太監督は、しみじみと語る。

 「去年の苦しい終盤戦で若い選手を多く使ったんですが、その若手が残留争いを乗り越えて大きな自信をつかみました。それが今年の飛躍につながったのかな、と。まあ、僕の口から飛躍というのもなんですが……」

 41歳になる長谷川は、人生のほとんどをサッカー王国と呼ばれる清水で過ごしてきた。

 清水FCに所属した小学生時代には、のちに「三羽烏」と呼ばれる堀池巧、大榎克己とともに日本一に輝き、清水東高でも冬の選手権で優勝、準優勝を一度ずつ経験した。だが、長谷川にいわせると、歓喜ばかりのキャリアでもないという。

 1977年、よみうりランドで始まった全日本少年サッカー大会で、長谷川の所属する清水FCは初代王者に輝いた。だが、勝って喜んだ記憶はない。埼玉県代表の与野下落合と3対3で引き分けて両者優勝。この両者優勝という決着が、彼には許せなかったからだ。

 「延長でも決着がつかず、引き分けに終わったときには負けたような悔しさでした。心底悔しかった。優勝だけど、両者優勝というのが納得できなかった。勝たなければ勝者じゃない、2位なら1回戦負けみたいなもの、僕はそういう環境で育ったんです」

 清水は勝たなければならない、なぜなら清水だから──。長谷川が育った土地の掟だった。日本一にならなければ育ててくれた人々や好敵手に面目が立たないし、なにより自分が死ぬほど悔しい。周りは清水の代表に勝つことを強く要求し、長谷川も幼いころから、それを当たり前のこととして受け止めてきた。

 '99年に現役を退いてから浜松大学や富士常葉大学を率い、着実に指導者としての経験を積んでいた長谷川に、古巣エスパルスからヘッドコーチとしてのオファーが届いたのは'04年のこと。J2のチームからも監督として誘われていたが、彼はエスパルスを選んだ。その後、石崎信弘監督が辞任したことで、彼はコーチを経験しないまま監督としてピッチに立つことになった。Jリーグでの監督経験がないことを不安視する声もあったが、長谷川には自信があった。情熱に満ち満ちてもいた。

 就任直後、長谷川はすべての選手に、熱い口調で説いた。

 まず、エスパルスの歴史について語った。市民球団として出発しながら、強豪と互角以上に渡り合ったこと。経営危機をたくましく乗り越えてきたということ。それらを噛んで含めるように話し、最後に強く訴えかけた。

 「だが、それらは過去のことであって、俺たちはもう一度、新たな歴史を創らなければならない。いまは弱いかもしれないが、お前らが歴史を創らなければいけないんだ。それだけの力が、お前らにはある。そして、誇りを持っていいだけのクラブにいるんだ」

 それが所信表明演説のすべてだった。長谷川が強調したのは、勝ってこそ清水だという自らが受け容れてきたルールだった。

 かつては優勝争いの常連だったエスパルスも、'02年シーズンの後期以降、5ステージ連続で10位以下に沈んでいた。優勝争いから遠ざかり、残留争いに巻き込まれなければ御の字。それが長谷川には許せなかった。

 「負けることに慣れてはいけない。残留したからいいんだ、そんな負け犬のようなチームには絶対したくはなかった」

 意識改革とともに、長谷川は体力の向上にも着手した。バルセロナ五輪にも出場した陸上競技出身の杉本龍勇をフィジカルアドバイザーとして招聘し、選手を徹底して走らせた。

 「就任前にデータを確認すると、終盤での失点が多かった。フィジカルが他チームより劣っていたんです」

 長谷川は鬼になり、選手は悲鳴を上げた。今年のキャンプ前も練習場がある三保の松原の砂浜で延々と走り込みをさせ、倒れこむ選手、嘔吐する選手が続出した。

 万全の準備をして迎えたはずの1年目、しかし、結果が出なかった。浮上するどころか、凋落に歯止めをかけることすらできなかった。

 勝ち点が伸びず、降格の危機が現実味を帯び始めた初秋になって、清水の町はにわかに騒がしくなった。有志たちが決起し、街中やスタジアム、練習場、さらには静岡や沼津といった近隣都市で大規模な残留キャンペーンを始めたのだ。大量に刷られた「絶対残留チラシ」が至るところで配布された。

 長谷川や選手たちは試合のたびに、無数の巨大な横断幕が張り巡らされた日本平スタジアムを、その横断幕に熱心に寄せ書きをするファンを目の当たりにすることになった。

〈清水絶対残留〉
〈生涯J1〉
〈清水の本気を見せてくれ!〉
〈お前らの力はそんなもの?― 違うだろ!〉

 それらは練習場の駐車場やクラブハウスをも隙間なく取り囲み、練習場に行くたびに大勢の熱心なファンから盛大な激励を受けた。

 「がんばれ、負けるな、信じてる」

 どこに行っても、ファンの情熱が追いかけてきた。いっそのこと罵倒された方が、気が楽だったかもしれない。

 長谷川は残留を目標に戦う自らが情けなかった。要求の高い清水の人々を低次元の争いに巻き込んでしまったことに、申し訳なさも感じていた。

 「わたしの現役時代、エスパルスは準優勝が多くシルバーコレクターと揶揄されましたが、優勝争いをするのが当たり前だったわけです。それが残留争いをすることになり、あのときは非常に苦しかった。横断幕?― ええ、スタジアムだけでなく、練習場に数カ月もわーっと張り巡らされまして……」

 ジュニアユースのころからエスパルスで育ち、プロ1年目に残留争いを経験した枝村匠馬は、その心境を次のように表現した。

 「あれは見ててきついですねえ。超責められてる気分になって、つらかったですねえ」

 だが、すべては過去の出来事である。

 降格の恐怖に向き合い、それを乗り越えたことでチームはようやく目覚めた。一体感が芽生え、選手たちは下位でぐずぐずしている場合ではないということに気がついた。Jリーグ終了後の天皇杯で彼らは決勝まで駆け上がり、その勢いは今年も持続される。開幕3連勝を飾り、その後は一進一退が続いたが、夏場になると引き分けを挟んで7連勝。数字でも、内容でも、去年とは見違えるものを見せつけた。

(以下、Number667号へ)

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