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濱中おさむ 「やっぱり4番を打ちたい」 

text by

永谷脩

永谷脩Osamu Nagatani

PROFILE

posted2005/08/18 00:00

 指名打者制があるパ・リーグ主催の試合で起用する。

 岡田彰布には監督に就任した当初から一つのプランがあった。今季から始まったセ・パ交流戦で、濱中おさむに復活の場を与えるのだ。そこでの成績は今後の濱中の野球人生を左右するといっても過言ではなかった。

 交流戦初戦となる5月6日、濱中は一軍に登録され、いきなりスタメンに起用された。

 「あんなに早く一軍に戻ってこれるとは思っていなかった。交流戦がなければ当然二軍にいたと思うし、そういう意味でありがたみを感じながら試合に入っていきました」

 札幌で行われた日ハム戦、スタメンとして発表された“濱中”の名前に2万2877人の観衆は沸いた。その誰もが「よくぞこんなに早く戻ってきた」という温かい思いを抱いたのは確かだろう。

 だが、濱中はただ不安だった。5月6日に向けて調整していたわけではない。監督からの“お呼び”がかかるとは露ほども思っていなかったからだ。

 「交流戦の初日から使ってもらえるとは思っていなかった。バッティングを本格的に始めたのが3月くらいだったので練習不足で。結果なんか出せるだろうかという不安の方が先にありました。ファームの試合に出ていたときは調子がよかったけど、そのあと下降気味になっていたときに一軍に上がったので、余計に不安だったのかもしれません」

 濱中がファームの試合に初めて起用されたのは、4月16日の北神戸でのサーパス戦。3番指名打者だった。この試合、濱中は本柳和也から本塁打を放っている。その後5月5日に一軍に合流するまでの13打数6安打、2本塁打という成績は、決して悪い数字ではない。だが、それでも本人は不安だった。

 試合は阪神・安藤優也、日ハム・金村曉の投げ合いで始まった。7回を終わって2-0で日ハムがリードする試合展開だった。

 「1、2打席と連続三振。まったく打てる気がしない。このままでは去年の繰り返しじゃないかと思いました。でも、3打席目でバットに当たってセカンドゴロ。あれでホッとしたのかもしれない。次の打席は同点の場面だったし、もう開き直って何も考えずに打つしかない、三振でもいいから3球とも振ろうと思いました。それでダメなら仕方がない。自分のセールスポイントはフルスイングだと言い聞かせました。でも、ツイていたのかもしれません。2-1と追い込まれていた状況で真ん中甘めの球でしたから。あのツーベースがなければ今の僕はないと思うくらいの、貴重な一打でした」

 濱中がしみじみ振り返ったヒットは、8回裏同点に追いついた直後の逆転の一打だった。阪神の交流戦初勝利に、岡田監督は「十分な手応えを感じた」と濱中の一撃を評価した。

 濱中のここまでの道のりは焦りと失敗の繰り返しであった。右肩には2度もメスが入っている。もう一度ケガをしたら、野球生命の終わりと言えるところまで追い込まれている。

 最初に右肩の捻挫が発覚したのは、'03年5月20日の広島戦。6月13日、復帰した直後の巨人戦では返球の際に右肩を脱臼し右肩関節唇損傷と判明、7月4日に修復手術を受けた。チームは優勝争いのまっただ中だった。濱中は急ピッチでリハビリを開始し、日本シリーズには7番指名打者として復活。第2戦では8回にレフト前ヒットを放ち、健在ぶりをアピールした。当時、打撃コーチだった田淵幸一は「あの飛距離、スイングを見たら和製大砲に育てたいと思わない人はいない」と絶賛した。

 だがこの年、濱中の周囲にも異変が起こる。星野仙一監督、田淵コーチがチームを去り、新監督として岡田が就任したのだ。

 濱中には岡田に対して「入団以来ずっと見てもらって、自分のことを一番知っている人」という思いがあった。そして、岡田から直々にケガを克服するためのゲン直しで、背番号31を与えられた。かつてミスタータイガースと言われた掛布雅之がつけていた縁起のいい背番号である。

 監督の思いを肌で感じた濱中は、人一倍張り切り、開幕を一軍で迎えた。だが、急ピッチの調整に濱中の右肩は悲鳴を上げていた。'04年5月6日の練習中に異変が発生、右上腕二頭筋長頭の炎症と診断された。そして、7月13日に前回とは別の部位だが再手術を断行。術後ボールを握ったのは今年2月になってからだった。

 「早く出たいという焦りもありました。でも、去年はそれで失敗したので、今年は絶対にそれは避けたい。トレーナーとも話し合って、抑えながら焦らずと自分に言い聞かせてセーブしてきました。もっとやりたいと思うときに、“今度やったら野球ができなくなる”と考えればセーブできるんです。練習では、とりあえず昔の自分を全部忘れることにしました。忘れるというか、2回も手術をしているので、前と同じバッティングをしろと言われてもできないことの方が多い。また一から自分のバッティングを築いていけばいいと思えるようになりました」

 今はそう話せる濱中だが、リハビリ中は現実をそう簡単には受け入れられなかった。

 「ケガをしているときは何も考えられませんでした。自暴自棄になったことも、酒に溺れた時期もあります。でも、僕にとってありがたかったのは、いつも自分を見ていてくれた人がいたことです。整体治療の岡先生がいつも一緒にいてくれたんです。酒を飲んでるときも……気分的にずいぶん助けられました。自分のことは何でも話せたので。もちろん、泣いた時期もありました。入院しているときが一番きつかった。テレビで阪神戦を見るのは特に辛かったですね。寝られない時期もありました。そんなとき、いつもファンの方々の励ましがありました。『焦らずやって下さい』とか『待ってる』とか。頂いた千羽鶴も、もう1万羽を超えてます。そういうのがありがたかったです」

 谷が深ければ深いほど、這い上がったときの喜びも大きい。交流戦の1本のヒットによって再起の灯が見えてきたとき、岡田は濱中に直接声を掛けている。

(以下、Number634号へ)

濱中治
阪神タイガース

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