野球場に散らばった余談としてBACK NUMBER
阪神に現れた生え抜きの正捕手候補。
“育成落ち”原口文仁とスカウトの物語。
posted2016/06/01 17:00
text by
酒井俊作Shunsaku Sakai
photograph by
NIKKAN SPORTS
現役を退いてから23年がたつというのに、こんな喜びもあるのか……。
かつて中日、巨人を優勝に導くなど球界を代表する正捕手だった男は、今年2月には60歳になった。東京都内の自宅で、テレビに映る野球中継を、これほど見入ることがあっただろうか。阪神でスカウトを務めて10年目に入った中尾孝義が声をはずませた。
「うれしいよ。そりゃ、うれしい。一軍に上がってすぐ出られると思わなかったし、ここまでやるとは思わなかったよな。父代わりみたいなことは何もしとらん。自分がいいと思った選手だからね。『とってください』と言っただけだよ」
今季、金本新体制は若手を積極的に登用する。とりわけ、球界を驚かせたのは育成選手だった原口文仁の抜てきだろう。
4月27日に支配下選手に昇格させ、即日一軍デビュー。コーチのユニホームを着てプレーするあたり、慌ただしさを物語っている。先発マスクを託し、5番に抜てきし、瞬く間に正捕手にもっとも近い場所まで駆け上がった。パワフルな打撃、冷静沈着なリード……。浮足立つことがない振る舞いには、意志の強さがにじむ。苦節7年目での大ブレークは、あの時、中尾が一瞬で通り過ぎようとする「出会い」を見逃していれば、あるいは、いまもこの世に立ち現れていなかったかもしれない。
'09年ドラフト6位で帝京高から阪神に入団。
いまから7年前だ。
'09年10月29日、中尾は岩手でドラフト会議の行方を見守っていた。
待機する新花巻駅でテレビが映すのは、1位指名で競合した花巻東・菊池雄星の抽選だった。真弓明信監督(当時)がくじを外すと、居合わせた西武のスカウトに「おめでとう」と言い残して、車中に消えた。指名は粛々と進む。
1位の二神一人、藤原正典、甲斐雄平、秋山拓巳、藤川俊介……。
もう5人か……。
会議の前日、中尾は菊地敏幸東日本統括スカウト(当時)に念押ししていたことがあった。
「原口をお願いします」
野球への真摯な態度など、理由も説明していた。そのことが頭にあった。ほどなく携帯電話にメールが届く。帝京高の大型捕手、原口を6位で指名したという一報だった。
中尾が「捕手の目」で惚れた素材だった。見初めたのは'09年春だ。神宮第2球場で都大会予選を視察したとき目に留まった。
「そこそこの肩でね。とても送球が強いわけじゃないけど、モーションに正確性があって打撃が良かった。ライトに弾丸ライナーでホームランを打ったんだ。狭い球場だけど、それを見たときに何かを感じた」
気になれば練習も見たい。帝京のグラウンド通いが始まった。