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「日本サッカーの父」を偲んで――。
クラマー氏と岡野最高顧問の絆。 

text by

二宮寿朗

二宮寿朗Toshio Ninomiya

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photograph byAFLO

posted2015/12/10 10:30

「日本サッカーの父」を偲んで――。クラマー氏と岡野最高顧問の絆。<Number Web> photograph by AFLO

「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したとき」と語っていたクラマー氏。写真は東京五輪時、岡野俊一郎コーチ(当時)と共に。

「55年の素晴らしい友情だったと僕は思っている」

“兄弟”の交流もずっと続いていく。

 岡野は一枚の写真を持っていた。フランスW杯前年の1997年、フランス代表の親善試合を観に行った時、クラマー、岡野、そしてクラマーの教え子であるフランツ・ベッケンバウアーが3人一緒に収まっていた。

 当時、クラマーは72歳、岡野は66歳。

 うれしそうなクラマーの表情を見つめながら岡野は静かに言った。

「デットマールと会うのは、いつも楽しみでした。でも2011年のJFA創立90周年記念パーティーに来てくれたとき、彼は式典で立っていられなくて、僕がずっと体を支えていました。体調があまり良くないんだなって感じたんです。彼からは2カ月に1回ぐらいのペースで電話がかかってきたんですけど、最後のほうは1カ月に1回。第二の故郷である日本に、もう一度来たがっていました。僕だって会いに行きたかった。でも僕も肺ガンが見つかってから、行けなくて……」

 そう言うと、岡野はもう一度写真を見つめた。写真に収まる“兄弟”と同じような表情をした。

「人間なんて、会うまでどうなるかなんて分からない。会ったって、そういう深い付き合いになるかどうかも分からない。でもね、僕はね、彼が来たおかげで人生が変わっちゃった。それは一つも悔いがない。55年の素晴らしい友情だったと僕は思っている。デットマールには感謝したい」

岡野に届けられた「Danke Schon」のメッセージ。

 クラマーの提言によって1965年に日本サッカーリーグが設立されたことをきっかけに、アイスホッケー、バレーボール、ハンドボールと他のスポーツでも次々に「日本リーグ」が設立されている。「日本サッカーの父」は、日本のスポーツ全体を改革した人でもあった。

 岡野はもう一枚、フォトフレームに入れたクラマーのポートレート写真をバッグから取り出して見せてくれた。

 クラマーが天国に旅立った後、来日した彼のパートナーから手渡されたものだという。そこには自筆のサインとともに、クラマーからの短いメッセージが添えられてあった。

「Danke schon」(どうもありがとう)――。

 岡野との友情、日本との友情。

 デットマール・クラマーは未来永劫、日本サッカーと、ともにある。

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デットマール・クラマー
岡野俊一郎

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