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<悲劇から歓喜までの物語> 1994年のセレソンを奮い立たせた「セナの言葉」。 

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シルビオ・ナシメント

シルビオ・ナシメントSilvio Nascimento

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photograph byAction Images/AFLO

posted2014/05/07 11:50

<悲劇から歓喜までの物語> 1994年のセレソンを奮い立たせた「セナの言葉」。<Number Web> photograph by Action Images/AFLO
英雄を喪い、悲しみに打ちひしがれる国民を救ったのは、
'94年W杯を制したサッカーブラジル代表だった。
彼らが大会前にセナと交わしていた「ある約束」とは。

 1994年4月20日、パリ、パルク・デ・プランススタジアム。2カ月後にワールドカップを控えるブラジル代表が、パリ・サンジェルマンと親善試合をした時のことだった。日本で行なわれたF1レース第2戦、パシフィック・グランプリの後、パリに立ち寄ったアイルトン・セナが、この試合の始球式でキッカーを務めている。黒いスラックスにゆったりとしたセーターを着たセナは、少しバランスを崩しながら、ボールを蹴った。

 ブラジル代表はこのときまでに'58年、'62年、'70年と3度W杯を制していたが、それはいわゆる“ペレの時代”であり、24年もの間、優勝から遠ざかっていた。

 '94年大会では主力の一人として活躍し、後に横浜フリューゲルスでプレーしたジーニョは、こう振り返る。

「'94年は戦術をはじめ、あらゆる点で見直しがなされたんだ。パレイラ監督が採用したのは4-4-2というフォーメーションで、常に8人が後ろに残っているような守備的なものだった。だからマスコミからは“まるでイングランドみたいだ”と批判されたんだ」

 パレイラは結果を重視したサッカーをするあまり、ブラジル本来の美しいサッカーを忘れている――当時のメディアやファンはセレソンを痛烈に批判し、それが選手たちの重圧になっていた。南米予選で弱小国ボリビアに敗れたことで、信頼度は大きく失墜していた。

「お互い4度目の優勝を果たさなければいけない」

 一方のセナは、このシーズン、ブラジルでの開幕戦、そして第2戦ともポールポジションからのスタートでありながらリタイヤ。2戦を終えてノーポイントだった。セナは、パリで会ったパレイラ監督に、こう語りかけたという。

「ブラジル国民に対する責任を(僕とセレソンで)分担しましょうよ。'94年に4度目の優勝を果たさなければいけないのはお互い様ですからね」

 フランスでの邂逅から2週間後、セナはこの世を去ってしまう。

“大きいロナウド”と呼ばれ、チームのムードメーカーだったロナウダンは当時、清水エスパルスに所属していた。

「セナのレースは欠かさず見ていた。当時のブラジル人はみんなそうだったはずだ。彼の勝利を見るのはとてもエキサイティングだったからね。それだけに事故で亡くなったことを聞いた時はとてもショックだった。エスパルスの練習を終えて家に戻るとすぐにCNNをつけて、いても立ってもいられずブラジルの友人に電話をかけたんだ」

【次ページ】 観客はアイルトンの名前を試合中も呼び続けていた。

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