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<セレッソ復帰までの物語> 柿谷曜一朗 「天才の蹉跌」~今どきの若者の挫折との向き合い方~ 

text by

城島充

城島充Mitsuru Jojima

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photograph byTakashi Iga

posted2012/05/22 06:01

<セレッソ復帰までの物語> 柿谷曜一朗 「天才の蹉跌」~今どきの若者の挫折との向き合い方~<Number Web> photograph by Takashi Iga
10代の頃は、明らかに香川より柿谷だった。だが、いつしか2人の
立場は逆転してしまう。未熟さゆえの挫折を経験した22歳は、
遥か先を行く香川の姿に何を思うのか。関係者と本人の証言から、
天才の葛藤に迫る。

 アスリートにとって、才能とはなにか――。

 フジタ工業や大塚製薬でプレーし、引退後は横浜マリノスのユース監督などを経て多くの逸材に接してきた中田仁司は、この問いかけに対する明確な答えを持てずにいた。アスリートが成功するかどうかは、それぞれの時代や環境、運にも左右されるからだ。だが、その少年を「天才」と呼ぶことには迷いがなかった。

「ひとことでいえば、まだ子供なのに大人の感覚でサッカーをしていました。普通、大人のコーチに『走れ』と言われたら、子供たちは怒られたくないからどんな場面でも一生懸命走るんですが、彼は違った。ゲームのなかで、なにが必要でなにが無駄なのかわかっている。経験を積んで初めて身につくことを、すでに感覚として持ちあわせていたんです」

 中田が横浜を離れ、セレッソ大阪のコーチとなったのは2000年。その少年、柿谷曜一朗はまだ小学5年生だった。

 4歳のときからセレッソのサッカースクールに通っていた柿谷は、いつもU-12チームの練習が始まる1時間前にグラウンドに姿を見せ、1人でリフティングをしていた。いつからか、グラウンドに出て少年の相手をするのが中田の日課になった。

「大人でも受けにくいボールを蹴っても、ぴたりと足もとで止めて同じような回転のボールを蹴り返してくる。パスのレベルを上げても必死でくらいついてくるから、私のほうも楽しみながらボールを蹴ってました」

「同世代に彼の感性と響き合う選手はいませんでした」(中田)

 そのままセレッソユースの統括責任者になった中田は、中学に進んだ柿谷をユースの選手たちと一緒にプレーさせたときのことも鮮明に記憶している。

1990年1月3日、大阪府生まれ。4歳でセレッソ大阪の下部組織に入り、'06年にプロ契約。同年のU-17アジア選手権でMVPを獲得、翌'07年U-17W杯でも2ゴールを挙げるなど活躍した。'09年途中よりJ2徳島に移籍し、今季セレッソに復帰を果たした。173cm、62kg 

「高校生を相手にしても物怖じせず、ゲームをコントロールしたんです。高いレベルでプレーすればするほど能力を発揮できる。少なくとも、同世代に彼の感性と響き合う選手はいませんでした」

 その後、柿谷が中学3年のときに中田は名古屋グランパスへ移ったが、惚れ込んだ才能が脚光を浴びるのに時間はかからなかった。

 クラブ史上最年少の16歳でプロ契約をかわすと、各年代の日本代表として活躍、2006年のU-17アジア選手権では日本を12年ぶりの優勝に導き、MVPを獲得した。さらに翌年のU-17W杯フランス戦で、メディアは躊躇なく「天才」の称号を彼に与えることになる。ハーフウェイライン付近、ゴールに背を向ける形でパスを受けると、絶妙のトラップとボディバランスで前を向き、そのままバックスピンをかけたループシュートをキーパーの頭越しに蹴り込んだのだ。

「あのゴールも、特別驚きませんでした。昔もあんな形でキーパーの動きを見て、ポーンと遠くから決めてましたから」

 名古屋で監督を務めたあと、古巣の大塚製薬が前身となる徳島ヴォルティスの強化育成部長をしていた中田はそんな感慨とともに愛弟子の活躍を見つめていた。だが、'09年6月、スポーツ紙に掲載された小さな記事を見つけて愕然とする。

 そこには柿谷が遅刻を繰り返し、チームから罰金を科せられたことが報じられていた。

【次ページ】 チームのなかで次第に立場が逆転していく香川と柿谷。

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