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最終回 特別対談・小野喬×岸本健 「日本スポーツ界を革新するために東京五輪を!」 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2009/09/25 11:30

最終回 特別対談・小野喬×岸本健 「日本スポーツ界を革新するために東京五輪を!」<Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

[ 第9回はこちら ]

 9回に渡り、岸本健氏に1964年の東京五輪の話をうかがってきたが、いよいよ最終回を迎えることになった。締めくくりとして、岸本氏と元体操日本代表の小野喬氏に対談をお願いした。
小野氏は1952年のヘルシンキ大会から4回連続で五輪出場を果たし、金5、銀4、銅4と、合計13個のメダルを獲得した名選手である。東京五輪では、日本選手団主将に指名され、開会式の選手宣誓も行なった。

──小野さんにとって、東京大会は4度目のオリンピックでした。一方、岸本さんは日本初のフリーカメラマンとして、初めて撮影にあたったオリンピックです。お二人に、当時の想い出を語り合っていただきたいと思います。

小野喬氏

【小野 喬(おの たかし)】
1931年秋田県生まれ。東京までの4大会連続で体操の日本代表となり、金メダル5つを含む日本人最多のメダル13個を獲得した“ミスター・オリンピック”。現日本スポーツクラブ協会名誉顧問

岸本 小野さんは肩を痛めての出場でしたね。当時の状況をあらためてお聞きしたいのですが。

小野 大会前の合宿中に、練習でじん帯を痛めたんです。だんだん痛みが増してはいたのですが……初日はなんとか乗り切れた。ところが中1日空いての自由演技のときはどうしようもない痛みにまで変わってまして。
当日の朝、練習会場で麻酔注射を打ってもらい本番に臨んだのですが、今度は感覚がなくて演技ができない。最初の種目はつり輪でしたが、順番を最後にしてもらいました。演技までの時間に、なんとか痛みを出して感覚を取り戻さなければいけない、と倒立や腕立て伏せを懸命にしたら、徐々に痛みと感覚が戻ってきた。それでなんとか演技ができましたね。午前につり輪と跳馬と平行棒です。また痛みがひどくなったので、昼休みに今度は針を打って、夜の鉄棒とゆかに臨みました。

岸本 会場の一角で、針を打っているところを撮影させていただきました。あの状態でよくやり切ることができましたね。とても心配でした。

岸本健氏

【岸本 健 (きしもと けん)】
1938年北海道生まれ。日本初のフリーランス・スポーツカメラマン。'65年株式会社フォート・キシモト(www.kishimoto.com/)設立。世界最大の五輪写真ライブラリの他に、あらゆるスポーツの写真を記録し続けている

小野 その状態で出来る技の構成に組み替えたりもしました。まあ、精神力ですね。チームのために頑張らなければいけないという意識でした。同僚も「休んでいいよ」と言ってくれていたのですが、同僚が失敗するのを見て、「自分が頑張らないと」と(笑)。ともかく団体で念願の金メダルを獲得でき、引退にも踏み切れました。

岸本 よく覚えているのが閉会式のことです。アメリカのテレビ局に手を上げてくれと頼まれても上がらなかった。

小野 終わったあとは、もうどうしようもなかったですね。

岸本 当時の小野さんといえば、今なら石川遼選手と同じくらい、どこに行っても人だかりができる存在だった。(体操女子日本代表の)小野清子さんとご夫婦で日本代表だったこともありますし、それまでの3大会で数々のメダルを手にしただけに、大きな注目とともに、当然メダルも期待されていたと思います。重圧や緊張はなかったのでしょうか?

小野 圧力というか、すごいものがありました。私だけじゃなく、みんなそうだったんじゃないでしょうか。

【次ページ】 夕方5時まで働き、深夜まで練習するのが当然だった。

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