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『ふたつの東京五輪』 第9回 「海外のスター選手たち」 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

PROFILE

photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2009/09/10 11:30

[ 第8回はこちら ]

 東京五輪で注目されたのは、日本人選手の活躍だけではない。外国人選手にも多くのスターがうまれた。
東西冷戦下における高い国境の壁を乗り越えて、世界のトップアスリートが一堂に会する──あのころは国際政治的にも、今よりオリンピックが重要な意味を持っていた時代だったのである。

 華々しい日本選手団の活躍ばかりが、東京五輪を盛り上げたわけではありません。日本の代表たちに声援を送りながら、海外から来た屈指のアスリートたちの活躍にも誰もが惹きつけられました。

裸足のマラソン金メダリスト。その哲学者の如きたたずまい。

 東京を彩った一人といって思い浮かぶのが、まずはマラソンのアベベ・ビキラ選手でしょう。エチオピアのアベベ選手は1960年のローマ大会では、裸足で走って金メダルを獲得したことで有名になっていました。彼が東京でも優勝し、連覇を遂げたのです。しかもそのタイムは当時の世界最高記録でした。オリンピックでマラソンの世界記録を出した選手は、それ以来アベベ選手しかいません。

 私も、レース以外の場、例えば選手村などでアベベ選手を撮影しましたが、哲学者とでもいうべき風貌と物腰が強く印象に残っています。

アベベを巡る、オニツカ、アディダス、プーマの争い。

 先ほど、ローマでは裸足で走ったと申し上げましたが、東京ではきちんとシューズを履いてのレースでした。シューズということで言えば、こんなエピソードがあります。アベベ選手は、東京五輪に先立つこと3年前、1961年の毎日マラソンに出場しているのですが、このときは日本のメーカー、オニツカのシューズで優勝したのです。オニツカは、現在のアシックスです。アベベ選手が来日すると、オニツカは猛烈な売込みをし、履いてもらうことに成功したのでした。

 当時、シューズはアディダス製が世界的に主流を占めていました。純日本メーカーのオニツカはそこに割って入ろうとしていたのですね。熾烈なシューズ戦争は、その頃からあったのです。

 ちなみに東京五輪のときには、契約の関係でアベベ選手はプーマのシューズを履いての出場でした。

NFLでも活躍した男子100mの「黒い弾丸」。

写真

100mと4×100mリレーの両方で金メダルに輝いた“黒い弾丸”ボブ・ヘイズ。
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 陸上短距離でもスターが誕生しました。アメリカのボブ・ヘイズ選手です。100mで世界タイ記録で優勝すると、4×100mリレーでも、メンバーの一員として世界新記録を樹立し金メダル。実況していたアナウンサーが、「黒い弾丸!」と叫びましたが、まさにそのような迫力のある走りでした。

 ヘイズ選手は東京五輪後、NFLのダラス・カウボーイズに入団、アメリカン・フットボールでも大活躍をし、殿堂入りを果たしています。

 水泳では、オーストラリアのドーン・フレーザー選手がいました。1956年のメルボルンからローマ、東京と、女子100m自由形で3連覇を果たした選手です。1962年に、女子では初めて1分の壁を切った選手でもありますが、その泳ぎは、まさにブルドーザーとでもいうべき、迫力に満ちていたのを覚えています。

 東京五輪は日々、彼ら海外のトップ・アスリートの活躍によっても、盛り上がっていたのです。

<次ページへ続く>

► 【次ページ】 日本国中の視線を釘付けにした体操女子の二人。

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