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山本昌邦「最後に君たちへ言っておきたいこと」 

text by

田村修一

田村修一Shuichi Tamura

PROFILE

posted2004/07/29 00:27

 「アテネ経由ドイツ行きと、僕は選手たちに常に言ってきた。そのアテネ五輪がいよいよ近づいてきました。僕にとってはアトランタ五輪からはじまるチャレンジの、総決算の意味合いがあります」

 アテネ本番を目前にした感慨を、山本昌邦はこう語った。

 山本がヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)から出向という形で、日本サッカー協会のナショナルコーチングスタッフに就任したのは'92年のことだった。以来、監督・コーチとしてアジアユース選手権とワールドユース選手権にそれぞれ3回出場。オリンピックは今回のアテネを含め3大会連続出場。途中、地元で開催された'02年ワールドカップを含め、山本は一貫して世界と戦い続けて来た。

 実績もあげた。ワールドユースでは初出場の'95年カタールと次の'97年マレーシアがベスト8。'99年ナイジェリアはFIFA主催の国際大会ではじめて決勝に進出する快挙を成し遂げた。五輪は'96年アトランタで優勝候補のブラジルを破り、世界中をあっと言わせた。続く'00年シドニーはベスト8。これからはじまるアテネでは、36年ぶりのメダル獲得を狙う。これほど国際経験の豊富な指導者は、日本には他にいない。

「そういう立場に自分がいて、チャレンジし続けられたのは幸運だったと思います」

 チャレンジの中身、目標も、時間の経過とともに変化した。

「はじめの頃とは、意識は随分変わっています。最初は何とかして世界の舞台で戦いたいという、世界大会への出場自体が目標だった。次にそういう舞台でどう勝つかということにレベルアップして、さらに今では、決勝トーナメントでどう勝ち進むかというところまで来ているわけですから。その進化と成長の度合いは凄かったと思います。

 ひとつひとつのプレーの質を上げたのももちろんだけど、それぞれの大会でチャレンジしてきたことが、すべて経験となって積み重なっていった。その歴史を踏まえて、先輩たちが築きあげたものを追い抜こうと、さらに上を目指してトライを続けた。この12年は、ずっとその繰り返しだったように思います」

 ベスト16に終わった'02年ワールドカップの後、山本は五輪代表監督に就任した。

「ワールドカップが終って(協会と)再契約するときに、磐田をはじめJのクラブからも当然話はあったんです。でもどちらが自分の経験をより生かせるかといえば、それは五輪代表のほうだった。今まで蓄積してきた育成のノウハウを発揮できることと、五輪で結果を出すことでドイツのワールドカップに向けて選手を育てていけるという、両方の魅力がありましたから」

 それは彼にとって、必然的なチャレンジであった。若くして指導者の道に転進しながら、これまである一時期をのぞき、ずっとアシスタントコーチとして誰かのサポートをしてきた。その間にさまざまな指導者から影響を受けた。ハンス・オフト、ルイス・フェリペ・スコラーリ、そしてフィリップ・トゥルシエ。特にトゥルシエとの4年間は、他と比較しようもないほど濃密な時間であった。

「彼らから得たものをいったん吐き出さないと、腹の中が飽和状態になっていましたから。人をサポートするのでなく、自分が組織の責任者としてスタッフを含めたチームを作り、これまで貯めてきたものをアウトプットする。そうしないことには僕も次に進めない。それには五輪代表監督が最適でしたね」

 山本が引き受けたのは、「谷間の世代」と言われる選手たちだった。彼等が出場した'01年のアルゼンチン・ワールドユースは、'79年以来のグループリーグ敗退。3大会連続で続けてきたベスト8以上の成績を、あげることなく終っていた。小野伸二らナイジェリア・ワールドユース準優勝組と今野泰幸、平山相太ら後のUAE・ワールドユースベスト8組に挟まれて、アルゼンチン組は能力的に劣っていると見なされていた。

「だからこそお前がレベルを上げてくれと。それも魅力でしたね。世界大会に出場し続けることで、日本のレベルアップをはかるという、これまで作りあげてきた流れを途切れさせてはいけない。そのために持てるすべてを注ぎ込んでやってくれと言われた。やりがいがあると思いました」

 山本は、谷間と言われるほどに選手たちのポテンシャルが低いとは思わなかった。

「アジアの中では決して悪い位置にはいない。経験さえ積めばまだまだ伸びる。やれることはたくさんあると思いました」

 目についたのは、彼らのひ弱さだった。言われたことはすべてソツなくこなす。しかし教えられたことから一歩外れると、とたんに何も出来なくなってしまう。

「うまいんですよ、みんな。でもうまいだけでは、世界大会ではどうしようもない。人間的に強くなければ苦しいわけです」

 ところが山本の目には、選手たちは自信とプライドに溢れているように映った。

「ツーロン(国際大会)で3位になったのが自信になっていたのかも知れないけど、僕に言わせればそれは過信以外の何ものでもない。これではチームは作れない」

 彼らの過信を取り除くために山本は、9月のアジア大会直前に、ジュビロ磐田との練習試合を組んだ。0対7とジュビロに粉砕され、自信を挫かれた選手たちの、目の色が変わった。結果はA代表もなしえなかった初めての決勝進出。また続いて参加したカタール国際大会でも日本は決勝に進んだ。ただしどちらも決勝で敗れて、同時に弱点も露呈した。

「環境も整い移動の負担も少ない日本国内では、彼らはいいパフォーマンスを出せるかもしれない。しかし国際試合では、芝生をはじめ移動、時差、暑さ、食べ物……、ピッチ内外の環境が違うわけです。相手もリーチが違うしフィジカルの強さが全然違う。そこで問われるのは逞しさであり個の強さであり、つまりはどんな状況でも力を発揮できる人間力だと思うんです」

(以下、Number607号へ)

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