日本代表、2014年ブラジルへBACK NUMBER

多くの苦難を越え、アジアの頂点へ。
ドーハの悲劇から17年後に得たもの。 

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二宮寿朗

二宮寿朗Toshio Ninomiya

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photograph byTakuya Sugiyama

posted2011/01/31 11:50

多くの苦難を越え、アジアの頂点へ。ドーハの悲劇から17年後に得たもの。<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

選手からの提案だった、途中交代後の長友の位置取り。

 日本は韓国戦でも露呈したように、試合後半の戦いに課題を残していた。それだけに、この状況を覆すことは難しい作業だと思われた。しかし選手たちの自主性を尊重してきた指揮官のスタンスが、この大一番で実を結ぶことになる。

 後半6分に、空中戦対策としてザッケローニは岩政大樹の投入を決断する。

 当初は「中盤を厚くするために」今野泰幸をボランチに上げようとしたが、今野に意見を求めると「(中盤に入るのは)ちょっと難しい」と答えたという。5分ほど考えたうえに、もうひとつの策である、今野を左サイドバックに、長友を左MFにというポジション変更の決断を下すことになる。

 これは指揮官が想定したプランの一つであったが、選手たちからもこのプランを指揮官に提案していた。長友は「俺が上がるほうがいいかなと思って、選手の考えとして(監督に)言った」と明かしている。選手たちはザッケローニの指示に受け身だったわけではない。自主性は指揮官自身が大会期間中、個々にコミュニケーションを図りながら植えつけてきたものだ。

あまりにもコンディションがバラバラだった日本代表。

 そして、この策が見事にはまることになる。

 パスの出し手を長友が抑え、受け手を岩政が封じる。明らかに流れがよくなり、この時点から急にオーストラリアが失速し、日本の攻撃の時間帯が長くなった。

 ここが勝敗を分けるターニングポイントになった。

 日本は体力を消耗しながらも、来たるべきチャンスを狙っていた。ウィルクシャーの守備が甘くなることは、監督が強く言ってきたことでもある。その左サイドからゴールは生まれたのだ。監督と選手たちの意識の共有がなければ、この勝利は、そして優勝は成し遂げられなかったはずである。

 今アジアカップは、日本にとって優勝のハードルが高い大会だった。欧州組だけでなく、国内組もJリーグがオフに入っている一方、天皇杯で元日まで試合をした選手もいて個々のコンディションがバラバラだった。

 中澤佑二、田中マルクス闘莉王のセンターバックもケガによる不参加で、指揮官は「経験を積ませる大会」として若手を多くメンバー入りさせた。

【次ページ】 韓国と豪州を破って得た、非常に大きな「実績」。

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