野球場に散らばった余談としてBACK NUMBER
最年少15歳で阪神に指名と、その後。
辻本賢人、再挑戦の日々に悔いなし。
posted2016/11/10 07:00
text by
酒井俊作(日刊スポーツ)Shunsaku Sakai(Nikkan Sports)
photograph by
Yoshimasa Miyazaki (Seven Bros.)
久しぶりに彼と会ったのは夏の盛りだった。兵庫・芦屋の焼き鳥屋で知人と飲んでいると、不意に姿を見せた。あどけない表情は消え、あごひげを蓄え、ハンチング帽がすごく似合う。貫禄すら漂い、すっかり大人の男に変わっていた。
「あの後、どうしていたんだ? 」
柔らかい関西弁は相変わらずだった。懐かしさもあって、つい聞き込んでしまう。無理はない。彼と長々と話したのは、もう7年前なのだ。日付も克明に覚えている。'09年10月1日。広島カープを取材していた昼すぎ、携帯電話が鳴った。
「お世話になりました。俺、トライアウトを受けます。まだまだ頑張ります」
そうか、ダメだったのか……。辻本賢人が阪神にドラフト8巡目で指名されたのは'04年秋だった。無名どころか、中学3年の学年にあたり、ドラフト史上最年少の15歳で指名されると世間は驚き、一躍、脚光を浴びた。在籍5年間の奮闘実らず、タイガースを戦力外になった。前向きに声をはずませたが、11月の12球団合同トライアウトも球速は130キロを超える程度で、他球団から声は掛からない。わずか20歳で、現役引退の危機にさらされていた。
藪恵壹の勧めでアメリカでの再チャレンジを。
「阪神を辞めた後、僕は自信がなかった。どれだけやりたくても、能力がなければ、できない。続けられると思っていなかった」
絶望感を募らせたとき、周りには人がいた。大阪で主治医が同じだった縁もある、元阪神でメジャーリーガーの藪恵壹(元阪神投手コーチ、現野球解説者)もその1人だ。「このまま終わるのは嫌だ」。その思いを察すると、こう言った。
「思い切ってアメリカに行って、やればどうだ」
かつて、中学時代に過ごした国だ。霧は晴れた。'10年2月、藪と向かった先はアリゾナだった。根本的に投げ方から見直した。上手投げだったが、藪やメジャー関係者からも、腕を下げるよう勧められた。そこにはサイドスローのサウスポー、ジェフ・ウィリアムス(現阪神駐米スカウト)の姿もあった。辻本も言う。
「野球を続けるなら何か特徴がないとチームに入れない。横から投げたら、すごく、しっくり来ました」