One story of the fieldBACK NUMBER
「晋太郎! ウメ! 逃げるな!」
福留孝介が阪神で本当に欲したもの。
posted2015/10/08 11:20
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
Naoya Sanuki
「孝介、手はどうだ?」
優勝争いが佳境に差し掛かった9月2日広島戦の前、グラウンドで和田監督が歩み寄ってきた。8月末に痛めた右手中指が完治していないことは指揮官もわかっていた。福留はいまだ通常の2倍近くに腫れ上がっている指を差し出した。
しばしの沈黙の後、こう言われた。
「明日から4番、頼む」
昨年から4番を張ってきたゴメスが不振だった。マートンに続いてゴメスまで……。外国人選手に勝敗の大部分を負ってきたチームにとっては深刻な問題だった。
では、だれが勝敗を背負うのか。首脳陣が出した答えだった。
福留にも覚悟があった。欲しいものを手にするためには、自分がやるしかないと。
家族のようなチームで優勝したい……。
PL学園の主砲として高校生史上最多7球団から指名を受けた。中日では首位打者、MVPを獲得した。日本のスターとして4年総額50億円超という大型契約で米大リーグ・カブスに移籍した。
今さら記すまでもないかもしれない。野球によって、すべてを手にした男が海を渡った。そう思われていた。
ただ、本音は違った。手にできなかったものがあった。渡米直前に聞いたことがある。
「俺は別にメジャーにあこがれているわけじゃない。家族のようなチームで戦っていたかったけど、今はそうじゃないから……」
落合監督の下、中日が黄金時代を築いていく一方で、親しかったスタッフなどが退団していった。恩人や仲間と勝ちたい。福留はそういう男だった。ただ、まだ30代前半だった福留はその想いをバット以外で語る術を知らなかった。本音とは裏腹に、チーム関係者には、こう言われていた。
「孝介は個人主義だから。アメリカが合っているんじゃないかな」
あれから10年近くが経った。
2015年、阪神での3年目。手術した左膝が完治し、戦える体が整った。勝負の年、福留が欲したものは1つだった。
この仲間と優勝したい。
アメリカでは栄光よりも、多くの挫折を知った。その経験が教えてくれた。チームが勝つために、バット以外でどう振る舞えばいいのか。今年、それを象徴していたのが、藤浪晋太郎との関係だった。