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阿修羅・原と馬場さんをつないだ一本の電話。
~天龍の名パートナーを悼んで~ 

text by

門馬忠雄

門馬忠雄Tadao Monma

PROFILE

photograph byNaoya Sanuki

posted2015/05/30 10:30

1991年、横浜アリーナでのSWS創立1周年記念試合で並び立つ阿修羅・原(右)と盟友天龍。

1991年、横浜アリーナでのSWS創立1周年記念試合で並び立つ阿修羅・原(右)と盟友天龍。

 日本一のタフガイが逝った。キャップ16を持つラグビーの元日本代表からプロレスに転向して話題をさらい、国際、全日本、SWS、WARと4つの団体を股にかけて活躍したレスラー阿修羅・原(本名・原進)が4月28日、長崎県雲仙市内の病院で亡くなった。心筋梗塞を患って入院していたが、死因は肺炎。68歳だった。

 あれは'81年のことだ。国際プロレスが倒産し活躍の場を失った原は、プロレスを諦めて郷里の長崎県諫早市に戻り、実家の農業を継ぐ決意を固めようとしていた。そんなある日、午前零時を回った頃だった。たまたま自宅で仕事をしていた私の部屋で電話が鳴った。ジャイアント馬場さんからだった。

「原が田舎に帰るって本当なの? やる気あるなら引き止めてくれないかなー」

 馬場さんは私が東京12チャンネル(現・テレビ東京)で国際プロレスの番組解説を務めていたことから、原と私が親しいことを知っていた。

 私は早速、原と連絡を取り、馬場夫妻と都内のホテルで会う手筈を整えた。全日本プロレスオーナーとの面談である。

「龍原砲」を生み出した馬場さんの売り込みプラン。

 馬場さんは原をジャンボ鶴田、天龍源一郎に次ぐ「第三の男」として位置付けるつもりだったが、当時の全日本の状況を考え、あくまでも慎重に事を進めた。

「いきなり全日本入団ではまずいな。初めはフリー扱いとなるね」

 そこで練り上げたのが、フリーの原がUNヘビー級王者・天龍に喧嘩状を叩きつけるという殴り込みプランである。この「原売り込み策」は実った。原と天龍は闘ったことで互いに実力を認め、意気投合。2人は「龍原砲」なるコンビで痛みの伝わるプロレススタイルを構築し、マット界に熱風を送り込んだのだった。

 '87年6月、長州らジャパンプロが退団した後、天龍が危機感を訴え、いわゆる「天龍革命」を起こした。これに呼応したのも原だ。ライバル関係にある2人が切磋琢磨し、それが結実したのが翌年8月、日本武道館で谷津・鶴田組を破っての世界タッグ王座獲得だった。

 プライベートでは興行絡みの不祥事で全日本を解雇されたが、その後も天龍と常に行動を共にしていたのが忘れられない。今年11月に予定されている天龍の引退試合に、姿を見せてほしかった。

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