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<赤ヘル軍団の黄金期> '84年 広島×阪急 「投手王国、最後の輝き」 

text by

阿部珠樹

阿部珠樹Tamaki Abe

PROFILE

photograph byMasahiro Nagatomo

posted2013/10/10 06:01

充実した投手陣を擁し、カープは3度目の頂点に立った。
栄光の'80年代、マウンドで躍動した往時の投手たちが、
最後の日本一への激闘の軌跡と、その後の苦闘を語る。

 ファンには長い時間だったろう。広島カープは3位以上を確定させ、クライマックスシリーズに進出することになった。1997年に3位になってから久しくなかったAクラス入りである。6年前からはじまったCSにもようやく出場することができる。応援してきた人たちの喜びが想像できる。

 しかし、そんなことで喜んでもらっては困る。そう口をへの字にする人もいるだろう。1980年代から'90年代初頭にかけて、カープは投手王国といわれた。それを担った人たちだ。'79、'80年に日本シリーズを連覇したあとも、強力な投手陣で'84、'86、'91年と3度リーグを制し、'84年には日本一にもなった。この3回のシリーズはいずれももつれ、すべて7戦('86年は8戦)まで戦われた。

「広島のケンカいうたら、とるかとられるか、どっちかしかないんで」

 広島を舞台にした名作『仁義なき戦い』の中で主人公役の菅原文太はそういい放ったが、カープの日本シリーズはその言葉を体現したような激しい戦いだった。それを経験した者たちからしたら、「3位で喜んでもらっては困るんじゃ」とすごみたくもなるだろう。

 険しいなりにも日本シリーズへの道が見えかけてきた年に、過去の戦いぶりを顧みる意味は小さくない。

阪急の打撃練習は「ポンポン、よう飛んどった」。

「打撃練習を見たらいかん」

 達川光男はコーチからそう指示されていた。1984年のカープの相手、阪急ブレーブスは福本豊、簑田浩二、松永浩美などベテラン、中堅、若手がかみ合った打線が強力だった。打撃練習を見たら自信を失う。そんな配慮である。

 だが捕手の達川は広島市民球場の物陰からこっそり私服で練習を見た。

「ポンポン、よう飛んどった」

 中でもこの年三冠王になったブーマー・ウェルズの打球は群を抜いていた。

 だから当然カープの対策も、ブーマーをどう抑えるかが大きなポイントになっていた。あまり知られていないことだが、カープにはデータ野球の伝統があった。このシリーズの初戦に先発した山根和夫は回想する。

<次ページへ続く>

【次ページ】 三冠王ブーマーを抑えるために取った対策とは?

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