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荻野正二 「バレー人生、満開の花」 ~日本を支えた22年間の軌跡~ 

text by

米虫紀子

米虫紀子Noriko Yonemushi

PROFILE

photograph byRyoukan Matsui

posted2010/05/13 06:00

今春、バレー界を長年支えてきた“万能プレーヤー”が40歳でコートを去った。
その苦闘と栄光の足跡をたどる。

 身長197cm、体重98kg。その太い腕から放たれた渾身のスパイクは、狙い通りアルゼンチンのブロックを弾きとばし、大きな弧を描いてコートエンドに消えた。それは、16年という長い年月をつなぐ放物線だった。

 2008年6月7日。主将・荻野正二のスパイクで、全日本男子バレーボールチームはアルゼンチンとのフルセットの激戦に終止符を打ち、'92年バルセロナ五輪以来、4大会ぶりとなる北京五輪出場を決めた。

「記録より、記憶に残る選手になりたい」

 この春、22年間の選手生活にピリオドを打ったウイングスパイカーがたびたび口にしてきた言葉だ。北京五輪行きを勝ち取ったあの1本は、日本男子バレーの行方を固唾をのんで見守っていた人々の記憶に、深く、確かに刻み込まれた。

男子は荻野一人だけで女子バレー部員とパスの練習を。

「大きい子がいますよ」

 福井工大附属福井高のバレー部監督(当時)堀豊が、身長192cmの中学3年生の存在を聞き、会いに行ったのは'84年の秋だった。

「どんぐり頭でねぇ」。当時の荻野の姿を思い出し、堀はケタケタと笑った。

「手足が長くて、ガッチリしていて、バランスがよかった。ぜひ欲しいなと思いました」

 荻野は野球部のエースで4番を張っていた。バレー経験はなかった。それだけの身長を生かすには、野球よりバレーをした方がいいと、堀は熱心に誘った。

「受験勉強しなくても高校に入れるんだったら、と思って」

 荻野は、一大決心ではなかったかのように振り返る。しかし、思春期の男子が、高校入学までの約3カ月間、ブルマー姿の女子バレー部員に一人交ざってパス練習をしたと言うから、相当の覚悟があったのだろう。

「企業チームから声がかかる選手に育てる」と恩師は約束した。

 堀は荻野を預かる際、両親に「高校を卒業する頃には、企業チームから声がかかる選手に育てます」と約束していた。身長はあるがバレー経験の浅い選手は、高さを生かせて守備の負担の少ないミドルブロッカーやオポジットに置かれることが多い。しかし堀は、「これからは大きい選手もレシーブ力が必要。息の長い選手になって欲しいし、企業チームや全日本にとって魅力ある選手になるためにも、ウイングスパイカーに」と考えた。攻撃だけでなく守備も高いレベルに鍛えなくてはならない。高校の限られた時間でやるべきことは山ほどあった。荻野は、堀のスパルタ指導に文句一つ言わず、黙々とボールに向かった。

「これをやっとけ、と言うと、誰も見ていなくても、1時間でも2時間でもやっていました。本当に我慢強く、コツコツとね」

 堀は目を細めながら回想する。バスケットのゴールリングに毎日100回ジャンプして帰れ、という教えも3年間守った。

<次ページへ続く>

【次ページ】 バレー歴わずか3年でサントリー入りした荻野は……。

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