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<Jリーグ20年記念> ベンゲル&ストイコビッチ 「欧州式コレクティブサッカーの衝撃」~1995年:名古屋グランパス、“鮮やかな変身”~ 

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戸塚啓

戸塚啓Kei Totsuka

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photograph byTakao Yamada

posted2012/02/28 06:01

<Jリーグ20年記念> ベンゲル&ストイコビッチ 「欧州式コレクティブサッカーの衝撃」~1995年:名古屋グランパス、“鮮やかな変身”~<Number Web> photograph by Takao Yamada
Jリーグが20年目を迎えた。
リーグがこの20年で見せた発展の背景には、来日した世界的なスター選手や名将、類稀な能力を持った日本人選手たちの尽力があった。節目の年、改めて彼らの足跡を辿った。

ウェブでは、Number798号「<Jリーグ20年記念> 歴史を動かした20人。」
から、名古屋グランパスの飛躍の物語を一部特別公開。かつて「Jリーグのお荷物」と揶揄されたチームを鮮やかに変えた、後の世界的名将の手腕に、当時の主力選手の証言で迫ります。

 クラブの歴史を大きく変えてくれた意味で、名古屋グランパスには感謝をしなければならない人間が少なくともふたりいる。ひとりはフース・ヒディンクで、もうひとりはテレ・サンターナである。

ベンゲルの指導で、技術ではなく動き出しなどの「判断の部分」が伸びたという浅野

 Jリーグが2年目を終えた'94年オフに、名古屋は新たな監督を探していた。最初にオランダの名将に声をかけたが、母国の代表監督になるのでと断られてしまう。次にブラジルの名伯楽を誘ったが、スタッフを含めた報酬があまりにも法外だった。差し出した右手は、こちらから引っ込めざるを得なかった。

 3人目にリストアップされたのは、日本でほとんど知られていないフランス人監督だった。欧州の新興勢力モナコで実績をあげつつあった、アーセン・ベンゲルである。

「失礼ながら、当時の僕は……。ほとんどの日本人選手は、知らなかったと思いますよ」

 チームの中核を担っていた浅野哲也は、申し訳なさそうに切り出す。とはいえ、彼の皮膚感覚は現実をとらえていただろう。名古屋の選手だけでなくメディアにとっても、ベンゲルは未知の存在だった。浦和が契約を結んだドイツ人のホルガー・オジェックや、サンフレッチェ広島にやってくる元オランダ代表のビム・ヤンセンらに比べると、ネームバリューは明らかに見劣りしていた。

ベンゲル監督就任で契約延長を決めたストイコビッチ。

 名古屋のフロントが下した決定に、驚きと喜びの入り交じる表情を浮かべる男もいた。'94年6月にマルセイユから加入していたドラガン・ストイコビッチである。

「凄い監督が来るぞ。彼は本当に信頼できるんだ。来シーズンが楽しみだよ」

 4年前のイタリアW杯で華麗な個人技を披露した“ピクシー”は、得点やアシストではなく黄色と赤のカードを集めることで有名になっていた。すぐに退団してもおかしくないような彼が、チームメイトのまえで興奮を隠しきれずにいる。'95年1月までの短期契約を見直したストイコビッチは、新シーズンも名古屋でプレーすることを決めた。

 ストイコビッチがモチベーションを高めたのは朗報だったが、ベンゲルに課せられたミッションは困難である。'93年の開幕から2シーズンが経ち、名古屋はガンバ大阪、浦和レッズとともに“三弱”と呼ばれていた。“Jリーグのお荷物”とも揶揄されていた。'94年の第2ステージでは9連敗を喫し、3ステージ連続で最下位だった浦和の後塵を拝してしまう。順位表の一番下へ沈んだのだ。

【次ページ】 ベンゲル就任も、開幕から2勝8敗と黒星が大きく先行。

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