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さらば、小林繁。波乱の57年の生涯。
~コーチとして開眼していた晩年~ 

text by

永谷脩

永谷脩Osamu Nagatani

PROFILE

photograph byKYODO

posted2010/02/04 06:00

通算139勝95敗、防御率3.18。1976年から現役最終年の'83年まで8年連続2桁勝利を記録

通算139勝95敗、防御率3.18。1976年から現役最終年の'83年まで8年連続2桁勝利を記録

 小林繁が波乱に満ちた57年の生涯を閉じた。どんな状況でも決して愚痴をこぼさない、そういう男だった。

 小林を思い出す上で忘れられないのは、やはり1978年「空白の一日」である。

 騒動の末、江川卓とのトレードで巨人から阪神に移籍したが、心の底では反発もあったに違いない。翌年、対巨人戦で8連勝を記録。2度目の沢村賞に輝いた。

 今にして思えば、'70年代は全てが巨人中心に動いていた。ふたりは何でも我々の思い通りになる、そう思っていた巨人の犠牲者だったのかもしれない。

韓国プロ野球チームでコーチ人生が大きく変わった。

 移籍後も不満を洩らすことなく、毎年2桁勝利を挙げていた。しかし'82年オフに「15勝できなければ辞める」と突如引退宣言。13勝に終わった翌年、本当に現役を引退した。チームメイトだった川藤幸三が、何で辞めるのかと聞いたところ「右腕に血が通わんのや」と打ち明けたという。「細腕繁盛記」と言われ、無理をして意地で投げ続けた結果だった。

 引退後も順風満帆とは言い難く、2度の離婚と自己破産も経験した。

 事業に失敗した後の'07年、近鉄などでコーチを務めた伊勢孝夫の紹介で、韓国プロ野球SK臨時コーチに就任。これがコーチ人生の大きな糧になる。

 昨年秋のことだ。西武ドームで偶然会った時、韓国時代のことを話してくれた。

「韓国人投手は速いボールを投げて、力で抑えることばかり考えている。でも本当は緩い抜いたボールで抑えることのほうが難しいんです。これができれば投球の幅も広がるんですけど、なかなかうまく伝えられませんでした」

二軍コーチとして投手を育て、日ハム躍進を支えた。

 異文化で試行錯誤した経験は、確実にプラスに作用していた。近鉄コーチ時代に岩隈久志を育てた手腕に、さらに磨きがかかったのだ。'08年、日本ハム二軍コーチに就任すると糸数敬作、江尻慎太郎のフォーム改造に着手。横手投げに変えることで、昨年の活躍を陰から支えた。

「横手投げにして手が遅れて出てくると、球の出所が見えにくくなる」が持論だった。

 好きな言葉は「人は石垣、人は城」。日本ハムコーチ就任前、「オールスター福井」で子供たちの指導をしたことがあった。いずれ少年野球で子供を育てたいと話してくれたが、叶えずに逝ってしまった。記録よりも記憶に残る投手が、またひとりこの世を去った。

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