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勇退する「ビッグ・サカ」の大きすぎる陰の功績。 

text by

門馬忠雄

門馬忠雄Tadao Monma

PROFILE

posted2005/04/28 00:00

 坂口征二CEOが経営の第一線から勇退。しかし、常勤相談役として新日本に残ることになった。創立者のアントニオ猪木に物が言えるのはいまや彼しかおらず、落ち込みの激しい業界にとってはまだまだ必要な人物だ。

 振り返ると、坂口が社長に就任したのは年号が平成に変わった'89年の6月。翌年3月、「プロレスラーと社長の二股稼業は無理」とキッパリ引退。その後はファンのために主要都市をまわっている。

 筆者にとっては『“世界の荒鷲”19年の歴史』という引退ツアー記念のパンフレット製作に携わった際に、故郷の福岡・久留米で行われた引退試合に招待され、現役最後の祝宴に加わり、一緒にしこたま飲んだのが最高の思い出である。

 坂口が落日の日本プロレスに見切りをつけ、若手3選手を引き連れ、倒産寸前の猪木・新日本に電撃移籍したのは'73年4月。“ビッグ・サカ”はプロレス中継を打ち切ったNETテレビ(現・テレビ朝日)の放送再開の確約を取り付けて猪木と組んだ。設立2年目、瀕死の新日本は猪木・坂口の黄金コンビによって息を吹き返し、馬場・全日本を脅かす業界の盟主にまで登り詰めたのだった。

 だが、彼は今でも年下の猪木のことをレスラーの先輩であるとして「猪木さん」と呼ぶ。サカさんがそんな性格でなかったら、新日本33年の激戦譜はあっただろうか。猪木が“燃える闘魂”となって異種格闘技路線を確立できたのも、女房役に徹したサカさんがいたからだ。'76年6月、日本武道館における猪木vs.アリ戦では十数億円の借金を背負ったのだが、これを全額返済したのは、サカさんが社長、会長就任中の10年間だった。当時、筆者に「銀行に信用されるようになったことが嬉しいねえ……」と打ち明けてくれた時の笑顔が思い浮かぶ。

 '89年4月、新日本が初めて東京ドーム興行を手がけ、福岡、札幌とドーム路線を確立させたのも坂口の経営手腕によるものだった。しかし、草間新社長体制になって2年目の新日本は営業不振が続いている。折りから三沢ノアの7・18東京ドーム開催が決定。間近に迫った5・14、今年2度目のドーム大会は、ノアの興行と比較されるのは明らか。

 業界の良心“ビッグ・サカ”の信用と誠実の営業看板はまだ外せないだろう。

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