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自由を愛した名指導者、岡仁詩さんの死を悼む。 

text by

大友信彦

大友信彦Nobuhiko Otomo

PROFILE

posted2007/05/31 00:00

 「ラグビーは……」

 「グ」は、濁点がつくかどうかの微妙な音調。柔らかな関西訛り……。芝の上でぶつかり合い、時には殴り合いまで演じられる競技の激しさとは別世界の穏やかさで、歌うように岡仁詩さんは言うのだった。

 「ラグビーは選手がやるものですから」

 大阪に生まれ、旧制天王寺中でラグビーに出会い、同志社大へ。FW第3列で活躍し、'59年に29歳の若さで同大監督に就任。'61年度には第2回NHK杯、'63年度には第1回日本選手権で、社会人の強豪・近鉄を破り日本一を達成。部長だった'82〜'84年度には、史上唯一の大学選手権3連覇を成し遂げた。

 それだけの実績にも、岡さんは自分の手腕を誇らなかった。気の急いた質問者はたいてい「ラグビーは……」の決め台詞にかわされる。だがその柔らかな声に、いつのまにか記者は心が洗われていく感覚を覚えてしまうのだった。

 「先生がやりたいことじゃなく、選手がやりたいことをやらせる。いつも選手のことを一番に考えてはる方でした」

 日本代表の合宿中に訃報に触れた大西将太郎は、そう言って天を仰いだ。

 自主性、個性を何よりも尊んだ。

 '73年に起きた、1年生部員が練習後に死亡した悲しい事故もラグビー観には影響した。ラグビーは自分の意志で取り組むもの。その信念から'83年には他チームに先駆けて監督制を廃止。一歩引いた部長の立場でチームを見守った。

 理論家であり、情熱家だった。定年で同大の教授と部長を退いても、総監督として京田辺のグラウンドに通った。衛星放送で世界の試合をつぶさに見ては最先端理論の研究を続けた。だが、勝利への近道が見えていても、自分の考えを選手に命じはせず、控え目な助言にとどめた。

 だから、選手が見つけた結論が自分の予想と違ったときは喜んだ。個人の自由な、新たな発想を何よりも愛した。坂田好弘、林敏之、平尾誠二、土田雅人……キラ星のごとき才能たちはそんなリベラルな空気を吸って育った。

 5月11日、心筋梗塞で死去。享年77。

 「残念だけど、先生は上から見てくれる。僕はW杯目指して頑張ります」(大西)

 自主自立の岡イズムは、教え子の手向けさえ貫いていた。ご冥福を祈ります。

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