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激動の時代を生きた美しき魂の軌跡。 

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posted2004/08/12 00:00

激動の時代を生きた美しき魂の軌跡。<Number Web>

 優美でダイナミックな技、稀なる美貌、漂う気品。'64年、東京五輪の体操個人総合、平均台、跳馬で金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカの演技は日本中を魅了し、大旋風を巻き起こした。

 「当時、僕は高校生でしたが、テレビで見た美しい姿は脳裏に焼きついています。ただ、その時点では彼女がここまで波乱に富んだ人生を送ることになるなんて考えてもみませんでしたが」

 それから4年後の'68年夏。彼女の祖国チェコを揺るがす事件が発生する。ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍の侵攻――この年初めにチェコ共産党第一書記に就任したドゥプチェクを中心に推し進められた「プラハの春」と呼ばれた自由化政策に対し、クレムリンが強攻策に出たのである。

 当初は粘り強く抵抗を続けたチェコ国民だったが、次第にソ連の圧倒的な力の前に沈黙していく。しかし、少数ながらもその後も屈することなく矜持を保ち続けた人々がいた。その一人が、チャスラフスカだった。

 同年秋のメキシコ五輪に、抗議の意を込めて黒のレオタードで出場した彼女は、ソ連のクチンスカヤらを抑え個人総合連覇を達成。跳馬、段違い平行棒、床運動でも優勝する。

 「表彰式でソ連の国旗にそっぽを向いていたのは印象的でした。そのころはプラハの春に共感する思いがありましたし、頑張れというか、チャスラフスカを応援したい気持ちでしたね。しかし、こうした行動がその後の彼女を苦境に追い込んでいくんです」

 '70年代に入り、チェコ政府がソ連の意向に忠実な路線をとるようになると、チャスラフスカは危険分子としてマークされるようになる。所属クラブから除名され、何度となく当局に連行され訊問を受ける日々。特に強く迫られたのが、プラハの春当時に行った改革路線を支持する「二千語宣言」への署名の撤回だった。しかし、彼女は断固として拒否し続ける。

 「なぜ撤回しなかったのかという私の問いに対して、ファックスで届いた彼女の答えは『節義のために』。この言葉は深く心に残りました。久しぶりに美しい言葉を聞いたなという思いでしたね。何か政治的なイデオロギーを信奉しているというわけではなくて、ただ一人の個人として、正しいと思うことを貫いたんです」

 '89年、東欧革命。チャスラフスカ同様、弾圧を受け続けた劇作家ハヴェルが大統領となってチェコは民主化され、ようやく彼女も復権を果たす。ハヴェルに請われ医療・福祉担当の「大統領顧問」となり、'92年にはオリンピック委員会の会長にも就任する。

 だが、そんな矢先、新たな不幸が彼女を襲う。長男と、離婚したかつての夫、つまり彼の父が酒場でたまたま遭遇、もみ合いとなり、転倒した父は後頭部を打ち、1カ月後に死亡してしまうのだ。以来、チャスラフスカは精神に変調をきたし、現在の彼女の居住地は鬱病の治療で知られる療養所であるという。

 「神様は意地悪だと言ったら変ですが、運命的としか言いようがないですね。彼女はもっと平凡に体操の世界の中で生きていきたかったと思うんですけれども、運命はそれを許さなかった。それでも彼女は、すべて真正面から受け止めてきたんです。苦しい状況の中でも、個人として背筋を伸ばして生きた人がいた、そうやって人は生きていけるんだということを伝えたい。それがこの本を書いた動機でもあったし、結論でもあったと思います」

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