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人生“九転び十起き”。近藤貞雄、逝く。 

text by

永谷脩

永谷脩Osamu Nagatani

PROFILE

posted2006/01/26 00:00

 希代のアイデアマンがまた逝った。中日、大洋(現横浜)、日本ハムの監督を務めた近藤貞雄。昨年末に他界した仰木彬の後を追うように、年が明けた1月2日、鬼籍の人となった。

 '82年、中日を率いてリーグ優勝を果たしたときは、「野武士野球」を標榜した。「名古屋を支配したのは公家でも武家でもない。野武士の文化だ。だから何をやってくるかわからない野武士野球が合う」というのが近藤の持論だった。今でこそ当たり前だが、中継ぎ、抑えという投手の分業制を初めて実践し、攻撃を仕掛ける前半と、守りで逃げ切る後半で、メンバーをガラリと替えるアメフト方式を本気でやろうとしていた。そんななかから牛島和彦という名ストッパーも生まれた。

 '85年から大洋の監督。この時は「横浜は港町。スマートなイメージがあるからスピードを売り物にする」と言って、高木豊、加藤博一、屋鋪要の3人を並べた「スーパーカートリオ」を形成した。最近、地元密着のチーム作りが叫ばれているが、地域のイメージに合わせてチームを変えた最初の監督だったかもしれない。

 昔からアイデアは多彩だった。現役時代、巨人に移籍し23勝をあげた年の秋季キャンプ中、進駐軍のジープにはねられ右手中指の腱を切断。巨人をクビになり、中日に拾われると、曲がった中指を利したパームボールで再起した過去をもつ。中日投手コーチ時代は、2年連続30勝をあげた権藤博を酷使して投手生命を奪ったのを反省し、アメリカ嫌いのくせに、アメリカ式に投げ込み禁止を打ち出したりもした。

 座右の銘は「九転び十起き」。「七転び八起きなんて甘い」とよく言っていた。大洋時代、本牧のバーでバーボン片手に語ってくれた話をなぜか思い出す。人工芝がようやく浸透したころだった。

 「人工芝になると、照り返しが強くて上昇気流が起こる。これからは転がすより遠くに飛ばせる打者が必要だ」

 仰木にしても近藤にしても、野球人を超越したアイデアと発想に、ダンディズムを感じさせてくれた。

 「野球人はカッコよくなければいけない」「コートの襟は立てて着るのがイイ男だ」とよく言った。勝った負けただけでは評価されなかった良き時代の野球人が、また一人去っていった。

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