ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
三沢光晴と蝶野正洋が築いた絆。
ノアと新日の蜜月、そして関係凍結。
posted2017/01/03 11:30
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
今、プロレス界にまた新たな地殻変動が起ころうとしている。
ここ数年、密接な協力関係にあった新日本プロレスとプロレスリング・ノアだが、2015年の12.3ディファ有明大会を最後に、鈴木みのる率いる鈴木軍がノアを撤退。丸藤正道と“ヤノマルフジ”としてタッグを組んでいた矢野通も11月23日にGHCタッグ王座転落を機にコンビ解消。そして、新日系で最後にノアのベルトを保持していた邪道&外道も、12.24ノア後楽園大会で小峠篤司&原田大輔に敗れ、GHCジュニアタッグ王座を手放した。
これによって事実上、新日本はノアとの協力関係を凍結。年末になってからの、このいささか急な展開は、11月1日にノアがITシステム開発会社エストビーに事業譲渡したことが、大きな要因となっているのは間違いないだろう。
もともと新日本とノアの交流スタートは、2001年にまで遡る。3.2両国国技館で行われた橋本真也のZERO-ONE旗揚げ戦のメインイベント(橋本&永田裕志vs.三沢光晴&秋山準)で対戦した永田と秋山が、闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本)、そして全日本プロレス四天王(三沢光晴、川田利明、小橋建太、田上明)の次世代による“俺たちの時代”を作るべく、団体の垣根を超えた同世代同士として、交流をぶち上げたのが最初だった。
武藤敬司らの大量離脱でノアと新日は急接近。
それは同年10月の新日本東京ドーム大会で、秋山がノア勢として初めて新日本参戦(永田&秋山vs.武藤&馳浩)という形で実を結び、翌年1.4ドームでの、新日本で初のGHCヘビー級選手権(秋山vs.永田)につながっていく。
そんな新日本とノアの関係が一気に深まったのが2002年。1月の契約更改で武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシン、そして複数のフロントスタッフが新日本を離脱し、全日本に集団移籍する大事件がきっかけだった。これを受けて、猪木から新日本の現場最高責任者に任命された蝶野正洋は、選手とフロントスタッフ両方が一気に手薄になった中、5.2東京ドーム大会を成功させなければならず、ノアの社長である三沢光晴に直々に参戦を要請したのだ。