野球善哉BACK NUMBER
“上原二世”と呼ばれた元巨人ドラ1。
村田透が米国で一世一代の大勝負!
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2012/03/02 10:30
2007年秋、ドラフト1位で巨人に入団した際の村田透(写真中央)。同期には、藤村大介、中井大介らがいた。他チームでは、佐藤由規(ヤクルト)、唐川侑己(ロッテ)、中田翔(日ハム)らがいる
上原二世──。
あの時の彼は、たしかに、そう呼ばれていた。
大阪体育大3年時に、先輩・上原浩治(レンジャーズ)も成し得なかった大学日本一に輝き、MVPを獲得。大学のリーグ通算勝利数こそ上原には及ばなかったものの、2007年秋の大学・社会人ドラフトで巨人の1巡目指名を受けて入団した。
上原の後輩で、大学日本一に輝いた投手がプロの門を叩く。その男には「上原二世」としての、期待がかけられていたものだった。
しかし──プロ入りから3年後の2010年、彼はジャイアンツから戦力外通告を受ける。1軍で1試合も登板することがないまま、日本球界を後にした。
その男の名は村田透。
今は、米大リーグのクリーブランド・インディアンスの傘下となるキンストン・インディアンスに所属し、メジャー昇格の日を夢見て、研鑽の日々を積んでいる。
「今シーズンは僕の人生に関わる重要な1年になる。それくらい勝負の年だと思っています。生きるか、死ぬか。年齢的にもゆっくりやっていられる年でもないんで、やるしかない。結果を残すつもりでいる」
と村田は2年目のシーズンへ向け、意気込みを語っている。
トライアウトを受けた村田に届いたアメリカからの打診。
日本では全く実績のない村田が海を渡ってまで野球を続けるのは、日本での悔しい想いがあるからだ。
戦力外通告を受けた時のことを、村田はこう振り返る。
「(巨人を)戦力外になる年の8月からはほとんど試合で投げる機会さえもらっていなかったので、実際は(戦力外も)あるかな? という予感はありました。親や応援してくれる人たちに活躍した姿を見せたいと思ってやっていたから……。すごく悔しかったですね。僕は、日頃はあんまり泣かないのですが、あの時は兄貴に電話して泣きました」
だが通告を受けた日の翌日、村田は通常どおりジャイアンツ球場へと向かった。「ここで練習しなかったら、自分はこのまま終わってしまう」という想いがあったからだ。
その後も忸怩たる思いを断ち切るように、遮二無二練習を続けたという。すると、戦力外通告から1カ月後に参加していたトライアウトの後に、待望のラブコールが届いたのだ。その球団が、クリーブランド・インディアンスだった。
インディアンスから言われたのは、直接的な獲得の打診ではなく、『興味はあるか?』という実にシンプルな問いかけだけだった。